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鈴木正治さんへの弔辞(2008.4.23)

  • redvine
  • 2008年4月23日
  • 読了時間: 5分

鈴木正治さん。

 千刈のお家のあなたの部屋には「火ヨウ 金ヨウハ セイトンビ シンダラ ソウシキ イラナイヨ」と書かれた色紙がずっと掲 げられていましたね。その言葉に反して、私たちは今あなたの葬儀のために集っています。でも、それがあなたの心に背くものだとは思っていません。だって、 あなた自身、部屋の整頓などほとんどしなかったのですからね。

 私たちが集っているのは、なによりも、あなたに感謝の気持ちを捧げたいからです。

 鈴木さんが亡くなられたことは、言うもでもなく私たちみんなにとって大きな悲しみです。昨年十一月に開かれた米寿のお祝いでお願いしたように、もっともっとお元気でいてほしかった。

 でも、1993年に胃ガンと頭の怪我で大手術をされた後も十五年以上にわ たって大活躍され、天寿を全うされたといってよいお年なのですから、もはや嘆くのはやめましょう。それよりも、あなたの生涯を称え、あなたのような方がこ の世におられたこと、私たちがあなたに出会えたことに心から感謝したいと思います。

 鈴木さんは一九一九年にこの青森の地で十一人きょうだいの次男として生を享けられました。絵や彫刻に心を奪われる少年時代を 過ごした後、第二次大戦に召集され、非人間的な兵士生活を体験した中国戦線から復員した戦後は、「これからは自分が責任を持てる、好きなことだけをして生 きよう」と固く決意しました。そして通信教育で美術を学び、制作活動に没頭する生活を送るようになりました。  

 やがて新進彫刻家として中央の美術界でも注目され将来を嘱望される存在となりましたが、名声と報酬を求めて競うかのようなあり方を拒否して、上京の誘い にも背を向けました。青森に腰を据えて、早朝に家業のパン屋の仕事を手伝う以外はひたすら制作に打ち込み、出来上がった作品は親しい人々に惜しげもなく与 えるという生き方を貫いたのです。

 そうした鈴木さんの存在は、青森の若き芸術家たちの道標となっただけでなく、作品と人柄を慕う多くの市民を生み出し、そのモ ダンで温かくユーモアあふれる作品は、まさにこの教会がそうであるように、いまや青森市内の公園や会館、お店や街角など、いたるところに置かれ、愛される ようになっています。さらに県内のみならず、岩手沼宮内の彫刻公園を初めとする全国に、そしてフランスやアメリカなど世界の各所に鈴木さんの作品は飾られ ているのです。


 しかし、作品以上に、鈴木さんの人格そのものが類まれな傑作であり、ある種の奇跡といってもよい存在でした。虚栄を求めない 生き方が素晴らしい、尊敬に値するというだけでなく、鈴木さんと接することによって、自分が人間として救われたという人、自分の生き方をつかむことができ たという人がどれほど多くいたことでしょう。

 かくいう私自身が、学生時代から左翼過激派の運動にのめりこんできた半生が四十歳台半ばにして挫折し、生きるあてもなく流れ てきたこの青森の地で鈴木さんに出会うことによって、人間という存在の素晴らしさを実感し、鈴木さんに認めてもらうことによって、生きる自信を取り戻し、 社会の中で生き直す場所を与えていただいた人間です。

 一九九四年から九六年にかけては、翁屋の斎藤葵和子さんから鈴木さんの作品を整理して“ギャラリー・ま”を 立ち上げるという仕事をいただき、世話係として常に行動を共にするようになりました。そして鈴木さんの人生の跡をたどり、鈴木さんを取り巻く人々と触れ合 い、鈴木さんが折に触れてもらす言葉を聴くことによって、ますますその魅力に惹きつけられるようになりました。とりわけ、ピエール・バルー氏に招かれた鈴 木さんとフランスで四十日間寝食を共にした日々は、いまも私の人生の宝物として深く心に刻み込まれています。

 その後、私は縁あって九六年から第二の人生における天職として山梨県でワイン用ブドウを栽培するという仕事につき、今も大き なやりがいをもって打ち込んでいますが、自分の人生の最大の恩人としての鈴木さんと、自分を生まれ変わらせてくれた第二の故郷としての青森を一日たりとも 忘れたことがありません。

 鈴木さん。本当にありがとうございました。

 さて、本日私たちがここに集っているのは、私たち自身のつながりと責任を確認するためでもあります。

 鈴木さんの作品の代表的なテーマに、ご存知のように「わ」があります。津軽弁で自分自身を意味する「我」であり、平和の「和」であり、人々のつながりの「輪」ですね。

 鈴木さんという大きな存在を失った打撃は、日を追うごとにあるいは深くなっていくのかもしれません。しかし私たちはこれから も、それぞれが自分を見失わずに強く生きていかなければならないのです。そしてそのためには、私たちがお互いを支えあうつながりがこれまで以上に大切にな るでしょう。

 そして私たちみんなの力を合わせて、鈴木さんの数多くの作品がさらに多くの青森の人々に身近なかたちで愛され続けていくように、共有の財産として守っていこうではありませんか。

 九六年六月に妻の律子さんが亡くなったとき、鈴木さんは大きな骨箱を抱きしめて、そこに「律子入る 次はボクが入る」と墨でしたためました。

 鈴木さん。あなたが望んだように、いまあなたの骨はいま私たちの目の前のあの箱の中に納められていますよ。長い間待っていた律子さんもきっと喜んでいるでしょう。

 鈴木さん、安らかにおやすみください。

 そして私たちの心の中で永遠に生き続けてください。

二〇〇八年四月二三日

                    赤 松  英 一

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