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父を語る(赤松敬『雑文集はきよせ』への寄稿)(1983年)

  • redvine
  • 1983年3月1日
  • 読了時間: 3分

 父について考えることが多くなったのは、比較的最近のことである。

 もともと僕にとって、親、とくに父親は重い存在ではなかった。少年時代から何かを強制されることはなかったし、高校から大学にかけて自分の生き方を選択していく過程で干渉されたこともなかった。そうした自分を信頼してくれる親の姿が、無言の圧力として念頭に浮かんでくるときも、ほとんど母のかたちをとってあらわれたものだ。

 子供としての僕にうつった父の像は、家族を養うために、さして働きがいがあるとも発展性があるとも思えない家業に黙々と従事する姿であり、友人達とのつきあいや地域の世話役活動を、のめりこまない程度に楽しんでいる姿であった。総じて家族、仕事、友人、社会等にたいする父の関係は、誠実ではあるものの、より高い価値(それがどんな内容であれ)をめざしていく積極性を欠いていると感じられた。それは当時の僕には、自分が成長していく目標とか、組みついていく対象として、あまりにも物足りないものであった。

 しかし、会えない状況にあった数年前、父が病に倒れた報せを聞いて思いめぐらしたとき、ちょうど僕の誕生時の父の年齢に達していた僕にとって、父の人生はかつてよりはるかに親しく感じられるものになっていた。

 厳格で家父長主義的な祖父のもとで育ち、青年期を職業軍人として15年戦争の渦中で生きてきた父にとって、家族を含めた他者への支配、強制をいっさい断念したような、僕の知る戦後の生き方は、おそらくみずから選びとったものなのであろう。

 もちろん僕は、父の生き方を、戦後の日本人のあり方として望ましいものと評価するわけではないし、これから同じような道を歩むつもりもない。ただ、その心の動きをじかに感じ取れるような気がするのである。

 人生が歴史と個性の切りむすびあいによって決されるとして、異なる歴史を生きる個性の<たち>とでもいったものに否応なく通いあうものがあるのだろう。そして<たち>というやつは、若年のころ考えるほど簡単に変革できるものではなく、それに開き直るのを拒否しながらも、じっくりとつきあっていく以外にはないらしい。

 このように、父にたいする思いは熱いものになってきたが、お互いに波乱のあった6年の空白をへて再会してからも格別に話しあったことはない。こちらも面と向かって語るのは気恥ずかしいし、なによりも、「おお、元気か」と一声かけるだけの、父のあのさりげなさが僕はもっとも好きだ。

 不肖の息子としては、ただ父の健康と長寿を願うだけである。

          赤松敬『雑文集 はきよせ』(1983年自費出版)への寄稿

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