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『牧野義隆遺稿抄』の「編集後記」(1994.4)

  • redvine
  • 1994年4月18日
  • 読了時間: 5分

 昨年五月、牧野の急逝を一刻も早く伝えようと努力してくれた友人数人からの伝言が手元 に届いたとき、既に葬儀の日は何日か過ぎていた。だから、牧野のあまりにも突然の死をともに悲しみ、彼の生と死について友人たちと語り合う機会をもつこと はできなかった。 

 当時僕は、それまで数年来の仕事としていた、中核派系の新総合雑誌の創刊という目標を、なお追求すべきかどうか、考え直している時期で あった。そして、牧野の死からしばらくして、この目標を断念し、最終的に中核派から訣別する決意を固めた。

 この決断は、もちろん僕固有の経過を経てのものであるが、そこに牧野の死という事件が影響したことは否定すべくもない。

 というのは、この新雑誌の創刊と編集という仕事に取り組むにあたって、僕を一番激励してくれたのが牧野だったからだ。

 一九九〇年初頭、僕はそれまで二五年間の生き方であった(関西の)中核派の幹部という あり方を放棄し、東京に出て、雑誌『破防法研究』の編集部の一員となることを志願し、それをより幅の広い左翼総合誌に変えていくことを追求することにし た。それは、かねてから革共同の理論と運動、組織に絶望を覚えながら、なお自分にとって生きる道はここしかないと覚悟していた僕にとって、自分が本当にや りたくて、しかも運動の変革にむすびつく希望もあるという点で、いわば最後の主体的選択としてあった。

 この志願は、一年半後に認められ、さらに一年間の準備の末、九二年九月に『季刊シリウス』(その後、江田五月らが名乗った同名のグループとは何の関係もない)創刊号を出すというところにまでいった。

 しかし、この創刊号は、組織の指示によって直前で発売中止となり、雑誌の創刊も延期された。執筆者の中に、三里塚闘争における「話し合い路線」の推進者が含まれている、という理由であった。

 組織が現在公然と許容する幅に限度があることは初めから判明していたことであり、その 意味でこれは、編集者としての僕の不注意が招いた事態であった。と同時に、中核派の軒先を借りて自分の出したい雑誌を作るというアクロバチックな方針の、 本質的な脆さが早くも露呈したものともいえた。

 僕は、小さからぬ打撃を乗りこえて、なお新雑誌創刊の仕事を続けるべきか、それとも 「これが運命」とスッパリあきらめるべきか迷いながらも、自分のミスの責任であり、組織との基本関係は変わっていないのだから、可能性の最後まで追求して みることにした。

 このときも、牧野は、「その方がよい。がんばれ」と励ましてくれた。

 それだけではない。僕の側の思いこみからいえば、新雑誌創刊の仕事にとって、牧野は不 可欠のパートナーとしてあった。新雑誌は、表向き、九〇年代の世界的激動と日本の政界大再編の動きを念頭において、読者層を中核派シンパを対象としたもの から、もっと広い左翼的、民主主義的層に広げるものとして打ち出された。しかし、僕の内面においては、左翼、活動家という枠をも超えており、比喩的にいえ ば、片足を現在中核派に属しつつ大衆運動に必死になって取り組んでいる層におきながら、もう片足を牧野に象徴されるような、職業と生活にいそしみながらモ ノを考え続けている層におくものとして位置づけられていたのだ。

 だからこそ、いったん破産した新雑誌の再創刊という仕事が、想像以上に困難な諸問題を抱えていることを思い知らされ苦吟していた時に突きつけられた<牧野の死>の打撃は大きかった。

 かくして僕は、新雑誌を断念し、もはやその中でやることのなくなった中核派からの離脱を決断した。そして、あまり例のない「円満退社」の実現のために、数ヵ月間残務処理で働いた後、九三年一一月、完全に組織を離れたのである。

 そして、若干の休息ののち新しい生活に入ろうとしたとき、自分のこれからの生きる道を 考えるためにも、牧野の考えていたことをたどりたい、牧野の遺稿集のようなものをつくりたい、牧野という男の存在、その軌跡、その思想を形あるものとして 残したい、という気持ちが、急激にふくれ上がってきた。これを差しおいては、一歩も前に進めない、そういう感じがした。

 そこで、一二月からそのための作 業を開始した。しかし、その後、「はじめに」に書いたような諸事情によって、当初もくろんだほどきちんとした遺稿集を作成するにはいたらなかった。残念で はあるが、やむをえないと思っている。

 一九六二年四月。入学した大手前高校のクラスの最初のホームルームで、「社会科学研究 部に入ろうと思っている」と自己紹介した僕のところに、「おれも社研に入るつもりだ」と牧野が話しかけてきた時からはじまった三〇余年にわたるつきあい が、こういうかたちで終わってしまったことは本当に悔しい。そろそろ会社をやめることを考えはじめていた牧野と、将来なにかを一緒にやることが僕の近年の 夢であった。

 すべてはせんないことであるが、せめてもの思いからこの小冊子を作った。ともかくも一周忌に間にあって、すこしほっとしている。

 さあ、これから、牧野のいない世界で、彼の無言の励ましを感じながら、自分の一歩をしっかりと踏み出さなければならない。

『牧野義隆遺稿抄』(1994年4月自費出版)掲載

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