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ピエール・バルーと鈴木さん

  • redvine
  • 2018年4月1日
  • 読了時間: 4分

「青森のタカラモノ」として地元の人々に敬愛されてきた鈴木正治さんが、日本全国、世界に広く知られるようになったきっかけとして、一九九四年秋のピエール・バルーに招待されたフランスでの制作と個展開催、九五年三月の朝日新聞記事「石と木と墨と−鈴木正治の生き方」(中島信吾記者)、そして九六年九月放送のNHK番組「飄々とひょうひょうと−彫刻家・鈴木正治の生き方」(福井徹ディレクター)の三つがあります。ちょうどこの時期に鈴木さんの傍にいたものとして、ここではピエール・バルーとの関係に絞って記録に残しておきます。

 ピエール・バルーは、一九六六年の名作映画「男と女」で一躍世界的に有名になったアーティストですが、八三年に高橋幸宏、坂本龍一などとのアルバム制作のために来日した際、通訳をした潮田敦子という女性と知り合い結婚することによって、フランスと日本の両方を拠点として活動するようになります。  このピエールと鈴木さんを引き合わせたのは、神尾賢二という映像作家でした。ピエールにビデオの撮影と編集の技術を教えたことをきっかけに親密になった神尾は、衛星テレビ番組のプロデューサーとして全国にビデオレポーターを養成する仕事を通して、青森にも人脈を持っていました。彼が九一年五月、バルー一家を戸来の「キリスト祭り」に誘った際に鈴木さんを紹介することによって、ピエールはその作品と人柄に魅了されます。 そして鈴木さんをフランスに招待して作品を作ってもらい、広く紹介したいと言い出すのです。

 一方、僕も中学以来の親友である神尾の紹介で九四年から青森で生活し、翁屋の社員として、鈴木さんの作品を整理して「ギャラリー・ま」を開設し、マネージャー的役割をするようになっていました。そこで、僕が鈴木さんに付き添ってフランスに行くことになったわけです。

 九月二七日に成田を出発し、パリのピエールの自宅を経由して二九日にフランス中西部、ヴァンデ県にある別荘に到着。鈴木さんは ここで十数点の木彫と多くの水墨画を十月二五日まで制作します。トーテムポール状の「誕生三連」など木彫の大作はそのまま別荘に残されました。

 二六日にパリに戻った鈴木さんは、ピエールと共にテレビに出演します。司会者の質問に答えて「作品にお金を取らないのは、取ると性格が変わるからだ。彫刻も絵も自分とっては同じだ。フランスに来て一番素晴らしかったのは、夜の美しさだ。地球が生まれて四六億年、その時の光がヴァンデに届いているように思えた」などと話し、出演者や視聴者の心を捉えました。

 個展は十一月一日から七日までピエールの自宅で開催。パリの中心部にある十六世紀に建てられた庭付きのアパルトマンで、竹や木が生えた庭に木彫が置かれ、各部屋や廊下の壁に水墨画や版画がたくさん展示されました。

 ピエールの友人や口コミで知った文化人、パリ在住の日本人などで連日賑わい、全員が作品を賞賛し、鈴木さんに敬意をもって話しかけるのでした。

 なお鈴木さんは、十月一五日から十八日にかけて、旧知の安田侃氏が個展を開催するのに合わせてイギリスを訪問しています。会場の北イングランド、ヨークシャー彫刻公園はヘンリー・ムーアの生地に作られたもので、彼の作品が多数展示されているからです。鈴木さんはムーアの彫刻について「非の打ち所がない。日本人はどこか正面というものを意識してしまうが、ムーアの作品はどこから見ても少しずつ違っていて、それが正面だと感じられる」と感想を述べています。

 ピエール・バルーと鈴木さんの繋がりは、翌年三月の東京日仏会館における「ピエール・バルーの世界」展及び「鈴木正治/ロベール・ボスケ展」、さらにピエールが創立し生涯にわたって情熱を注ぎ込んだインディーズ・レーベル「サラヴァ」のロゴマークへの「誕生」の採用へと続きます。「スターというゲットー」を拒否して、何よりも自由な精神を尊んだピエールにとって「鈴木さんは世界で最も優れた芸術家」だったのです。

 僕が青森にいたのはわずか二年です。しかし、鈴木さん及び青森の人々との出会いが、学生時代以来の左翼過激派人生が破産し混迷していた僕に、人生を生き直す力を与えてくれました。斎藤葵和子さんはじめ、多くの方のお世話になりましたが、既に鬼籍に入られた鈴木正治さん、斎藤巳千郎さん、そしてピエール・バルーに心からの感謝を捧げます。       

                    (山梨在住のワイン用ブドウ栽培家)

(『北の街』2018年4月号掲載予定)

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