ライフワークとしての栽培クラブ
- redvine
- 2012年11月30日
- 読了時間: 16分
更新日:2021年10月13日
この文章は、2012年3月10日に開催された「グレイス栽培クラブ5周年祭」の企画「シンポジウム―栽培クラブを語る」の冒頭での発言用に作成した、同タイトルのレジュメをもとに書き下ろしたものです。大きな流れは当日の発言と同じですが、10分強の時間では言えなかったことを追加した内容になっています。(2012年11月30日記)
はじめに
2007年5月、鳥居平農園におけるグレイス栽培クラブ発足式の挨拶で、設立の経緯について僕は次のように述べました。
きっかけになったのは、2月の剪定体験ツアーのアンケートで「年間を通してブドウ栽培を体験したい」という希望が多かったことです。その要望に応えるべく企画を立案したのですが、それを単なる年間栽培体験教室的なものではなく、会員だけで鳥居平農園を運営するという大胆な方針にしたのは、背景に明野農場の作業量の増大に伴って社員の労働力では鳥居平の維持が困難になってきているという会社の事情がありました。
と同時に、当時60歳になり、農場長としての職責を次世代に譲ることがタイムテーブルに上りだした僕自身が、ワイン愛好家である一般の方々にブドウ栽培を教え、ともに働くことを、今後の自分のライフワークとしたいという意欲、目標を強く抱いたからでした。
この思いは、栽培クラブ5年の歩みを経て、ますます大きな、確固たるものになっています。あえて言えば、栽培クラブこそ今や僕の生きがいになっていると言ってよいでしょう。
前半生、僕はどう生きてきたか?
これまでにもみなさんにお話ししてきたように、僕は大学入学直後から学生運動に身を投じ、その後も40歳代半ばまで、マスコミ用語でいうと「極左過激派」の専従活動家として生きてきました。
もう少し正確に言うと、学生時代は、1965年当時「反日共系三派全学連」と称された運動の一翼であったマルクス主義学生同盟・中核派(上部団体は革命的共産主義者同盟・全国委員会)という組織に所属し、日韓条約反対―ベトナム侵略戦争反対の運動から70年安保粉砕・沖縄返還闘争にいたる反戦・反安保の政治闘争、さらにいわゆる全共闘運動の一翼をも担って京大闘争―全国大学闘争の最先頭に立って闘いました。
そしてこうした運動が70年以降、三里塚闘争(成田空港反対闘争)や狭山(部落)差別裁判糾弾闘争を先頭とする差別反対・解放運動などの高揚をも含みつつ、全体としては「内ゲバ」=党派間戦争激化に埋没して後退・荒廃していった過程でも、1993年に至るまで約30年近く続けてきたわけです。
この運動は、マルクス・レーニン主義の理論に基づき、共産主義社会の実現を目標として掲げていたという点では古くからある革命運動の一潮流ですが、当時はそれこそが社会主義だと信じられていたソ連や中国の社会体制や各国共産党の組織・運動を「共産主義を歪曲・変質させたスターリン主義」として全否定するという点で、自らを「新左翼」とか「革命的左翼」とか「反帝国主義・反スターリン主義派」と呼んで、「既成左翼」と自己を区別していました。
また一方、同時代的=全世界的な流れからみると、「パリ5月革命」に代表されるような、60年代後半に先進資本主義国の中で同時的に爆発した、ベトナム戦争反対や大学の管理反対、管理社会体制粉砕などを掲げた若者の反体制直接行動の一環でもあり、欧米ではこの運動のことをそのピークの年に合わせて、「1968年革命」と呼んだりしています。
それでは、現在の目からみて、こうした運動や組織をどう評価すればいいでしょうか?
根底にあるのは、労働者を搾取し、貧困・恐慌と戦争を必然化する以外に成り立たないというモデルから、「豊かな社会」=情報化/消費化社会といわれるモデルへの資本主義の延命・変質・発展という事です。その結果、それまで「社会発展の必然として」「より豊かになるため」に国有化・計画経済としての社会主義の優位性を主張していた既成左翼の体制内化=無力化が進行する一方で、「豊かな社会の中での人間性喪失」、「管理社会の中での人間疎外」などと称される社会の中心部での新たな矛盾や、南北問題、資源問題、差別問題など世界=社会の周辺、限界に関わる矛盾が累積・爆発するようになりだしたわけです。
「新左翼」「革命的左翼」や「1968年革命」の運動は、大きく見ればこの新たな問題を見据えて、「より豊かになるための革命」から「人間の在り方を変える革命」へと運動の目標を設定し直し、行動手段を「政党への投票」から直接行動に転換し、組織の在り方(指導部と参加者の関係)をも変革しようと試みたと言えるでしょう。
その意味では、一定の歴史的な意義と評価を与えることはできるし、それが70年代以降の文化や思想の流れに(とくにサブカルチャーの領域で)大きな影響を与えたことは否定できません。
しかし、社会思想・政治運動としてみれば、正直なところ、極めて未熟な・過渡的なものでした。なによりも、実現するべき新たな社会の在り方やそこに至るプログラムを明確な形で提示することができずに、「絶対否定」を突きつけただけで終わり、マルクス主義やレーニン主義についての思想的な捉えなおしも不十分でした。そうした限界は、全世界的に共通するものでしたが、日本の場合には、さらに大きな、根本的な誤りを持ってしまいました。
それは、「新左翼」と自称しつつ、実は既成左翼よりも古い観念的なマルクス主義、レーニン主義の教条に囚われ、党至上主義的な自己絶対化を強めるとともに、日本人の組織・運動の伝統的悪弊ともいうべき「組織依存性」「ウチとソトの論理」に骨がらみになることによって、「内ゲバ」や「総括=粛清」の泥沼に入り込んで無残に崩壊し、その後の社会運動の発展を妨げてしまったのです。
もちろん、そのような陥穽に陥ることなく運動を続け、真摯な思想的格闘を積み重ねた個人や潮流が全くなかったわけではありませんが、主流(残念ながら、僕はまさにそこに属していました)はそうであったと言わざるをえません。
僕はどのようにして生き方を転換したか?
僕は、かなり早くから運動=組織の在り方に根本的な批判を持ちながら、「辞めることは許されない」という責任感・義務感と「自分にとっても社会にとっても、何か少しは意味のあることができるはずだ」という思いから運動を続けていたのですが、1993年になって、自分としても、組織としても、「もはや続けることに意義はない」という認識に達して離脱しました。
とくに生きるあても計画もなく、ただそれまで過ごしてきた大阪・京都や東京から遠く離れて暮らしたいという思いから、たまたま友人に紹介してもらった青森の地で2年間暮らす過程で、人生を生き直すための二つの大きな糧を得ることができました。
一つは、彫刻家の鈴木正治さんと彼をとりまく人たちの絆に触れて、人間として生きることの素晴らしさを実感し、自分も生き直してよいのだという自信を得たことです。
そしてもう一つが、鈴木さんのパトロンであり、僕もお世話になった菓子会社・翁屋が加盟していた「良い食品づくりの会」の活動の場で、偶然かつての同志であった酒井さんと再会したことをきっかけに中央葡萄酒に入社したことです。
酒井さんは三澤社長の片腕として、当時は企画室長という役職にあったのですが、企画や広報といった分野なら、僕のそれまでの活動での経験を生かして、即戦力として会社の役に立つことができるだろうと考えて、社長に紹介してくれたわけです。
しかし三澤社長は、日本のワインづくりの歴史と中央葡萄酒の使命に関する慧眼から、「今のワインの在り方をそのままにして、企画や広報で販売を拡大しようとしても意味がない。ブドウから、畑からワインを作り直す気があるのなら、働いてもらいましょう。」と提案されたのです。
これは僕にとっても、願ってもないことでした。思想・イデオロギーを旗印に、言葉(演説や文章)で人を動かし、組織してきた僕は、それまでの思想が破産したあと、別の思想・言葉を操ることで生き延びることだけは決してしまいと固く決意していました。そして直接人と向き合うのではなく、自然を相手にモノをつくって生きたい、そのモノが人の役に立ち、支持されることで生活できるようになりたいと考え、漠然と職人か農業を志望するようになっていたのです。
日本のワインを取り巻く状況やその中での中央葡萄酒と三澤社長の位置について当時はなにも知りませんでしたが、自分自身が大好きなお酒(ワイン)をつくるために農業に従事できるなら、これほど有難いことはない、と喜んだわけです。
こうして1996年4月、49歳にして、ブドウ栽培・農業への一からの挑戦が始まりました。大きな方針は三澤社長の指示に従い、具体的な作業のやり方は、会社の(若者である)先輩社員や地元農家に教えてもらい、見様見真似でやる過程で、二つのことが仕事での習熟にたいへん役に立ったのです。
一つは、当時結成されたばかりの、VINTERNETと称するワイン好きのインターネット愛好者の組織が半年に一度行うオフラインミーティングの講師役をしていた浅井昭吾(麻井宇介)氏の話です。後に中公新書の『ワインづくりの思想』にまとめられることになる毎回の講演は、ワインづくりの現在を大きな歴史と広い社会的視野の中に位置づけることによって、自分の仕事の方向性を極めて明確にしてくれました。
もう一つが、栽培理論、Viticultureの勉強です。日本の農家の生食用ブドウ栽培技術は極めて高い水準にありますが、ワイン用ブドウの栽培に関する教科者や参考書のようなものはありませんでした。わずかにマンズレインカットの施設を販売するためのごくマニュアル的な解説パンフレットが存在していただけです。それで、97年に日本のワイン・ブドウ学会の親団体であるASEV(American Society of Enology & Viticulture)のサン・ノゼ大会にオブザーバーとして参加させてもらった機会に英文の教科書を買い込み、勉強したのを皮切りに、その後、リチャード・スマート博士を代表とするニューワールドの栽培理論家たちから直接学ぶことができました。
僕が入社した1996年は奇しくも鳥居平農園(現在は大野さんに返還した第2農園)の開設の年であり、僕の栽培家としての歩みはまさに鳥居平農園の拡大―成園化の歴史とぴったりと重なります。その中で、99年産のメルロがジャパンワインチャレンジで金賞を獲得したり、2001年のカベルネ・ソーヴィニヨンが高い評価を受けてくることもあって鳥居平農園を訪れる人が増え、僕が説明を担当したり、栽培体験を指導する場面も多くなってきました。
そのとき、自分が習熟するにあたって役立った二つの観点が、人に説明するに際しても有効であることを実感するようになります。つまり、ブドウとワインを語る際に、一つは大きな歴史的・社会的な視野から説明する、もう一つはブドウの栽培方法を理論的・科学的に説明するというやり方が多くの人に理解されやすく、ときには感銘をももたらすということです。
その結果、正直に打ち明ければ、僕は本当の意味で一人前の栽培家になる前から、ぶどう畑の解説者として評価されるようになったといえるかもしれません。
このようにして、いったんは「人を相手に言葉で働きかける」ことを断念し、「自然を相手にモノをつくって暮らす」ことに専念する決意をしたものが、中央葡萄酒に入社して、三澤社長のもとで鳥居平農園の建設という事業の担い手となることによって、「ブドウ栽培という場をとおして、人と社会に直接的にもかかわり直す」ようになりました。「革命」や「社会変革」を直接的に追求することは断念したとはいえ、やはり僕にとっては、人間と社会が一番関心のあることなので、これは嬉しいことでした。
そして、鳥居平に続いて明野農場→三澤農場の建設にも一定の目途をつけ、後継者の体制も出来上がる中で60歳を迎えたことで、これからは「ブドウ栽培をとおして、人と社会に直接的に関わる」ことそのものを活動=生き方の主軸にすえようと考えて栽培クラブの企画を立案するにいたったわけです。
これまで、僕の人生の軌跡という面から、栽培クラブがもっている意味について語ってきました。ここからは、栽培クラブの活動そのものが持っている意味・意義について、少し掘り下げて考えてみることにします。
農業とは何か
みなさんが栽培クラブに期待しているもの、追求しているもの、栽培クラブがそれぞれの生活の中でもっている意味や位置などはけっして一様ではないでしょう。
もちろんワイン愛好家として、ブドウ栽培から取り組むことによって、ワインをより深く知り、楽しむことが原点=共通点です。しかし、その根本のところで、ブドウを栽培すること=畑で働くこと=農業に携わることそのものが楽しみだという感覚があるはずです。
農業は人間が生存するうえで最も大事な<食>を保証してくれる、一番基礎的な産業であるとともに、人類が<人間>として成長・発達をとげてきた<労働>の根源的な性質を明らかにするものです。
人間は自然の中から生まれ、その一部でありながら、自然に対して働きかけることによってその客観的な法則性をつかみとり、それを目的意識的に適用することによって、自然からの恵みを得るとともに、自らの能力を高めてきました。
これは高度に発達した産業や技術にも貫かれている原理ですが、最も直接的に感得できるのが農業です。栽培体験を重ねるごとにブドウについての知識が増え、スキルが上達し、それが収量と品質の向上につながっていく楽しみは、みなさんよくご存知ですね。
と同時に、農業は自然の根源的な優位性、人間の技術がいかに発達したとしても決して自然を征服=統御しきれないこと、人間が自力で獲得したかにみえる<富>は根本において自然からの贈り物=贈与にほかならないことを突きつけるものでもあります。
これも、収量や品質が結局のところ、天候に左右されざるをえない経験をとおしてみなさんよくご存じのことです。
今日の社会は高度に発達しており、個人の趣味としてはともかく、自給自足経済や<農本主義>に戻るわけにはいきません。しかし3.11大地震と福島原発事故が改めて示したように、自然の根源性、最終的な統御不能性を認識の根底に置いたうえで、産業、社会、生活を築き上げていくことが必要です。
その意味では、農業を独自の産業として発展させることが大事であるとともに、全ての産業、労働に携わる人にとって、なんらかのかたちで農業とのつながりを維持していくことが大切だといえるでしょう。
もちろん家庭でのプランター野菜作りも意味を持っているわけですが、可能ならば、農地の上で、農業を生業としている人の姿が見えるような関係で、農業に関わることができれば素晴らしいことです。今、農家の高齢化・後継者難の中で、都会からの新規就農者を募る必要性が大きく叫ばれています。それも必要なことですが、もっと大事なのは、半農反○というか、週末農・週日○というか、いろんな職業=○○についている人が、同時に農業にも関われるシステムを作り上げることだと思います。
これからの社会の在り方と自主・協同的ネットワークの意義
栽培クラブは、今述べたように、一般の人がブドウ栽培=農業に関わるという目的=内容の面での意義を持っています。それだけでなく、様々な職業・年齢・地域の人が自発的に集い、共感しあいながら、密度の高い交流・交友を実現しているという形態=組織の面でも独自の意義を持っていることをみなさん感じておられるでしょう。次に、この側面をこれからの社会の在り方という問題と結びつけて考えてみたいと思います。
かつては経済、社会の在り方について、市場経済=資本主義と計画経済=社会主義の二項対立で捉えることが主流でしたが、人類学的知見の進展を反映して、今日ではあらゆる社会を<交換>と<再分配>と<互酬>の三つのシステムの独自の組み合わせで考えるようになっています。
<交換>は相互に独立した主体が自由意思で財物を交換する関係であり、<市場経済>に発展し、理念としては<自由>に対応します。<再配分>は権力をもった主体が財物を強制的に集中したうえで、それを成員に再配分する関係であり、かつては支配階級による収奪の契機のほうが優勢でしたが、今日では政府=行政による所得再分配の契機のほうが重視され、理念としては<平等>に対応します。そして<互酬>は人格的に依存しあう関係であり、原初的には家族や共同体成員間の相互扶助から出発し、今日では協同組合やボランティア的協同行為に体現されるもので、理念としては<友愛>に対応します。
これからの社会の望ましい在り方を考える場合、まず、市場経済の欠陥と弊害をしっかりと認識しつつも、それを全廃することは不可能であることを明確に認めるべきでしょう。したがって、個人の自由を基礎に、市場経済が社会のベースとしてあり続けることを承認したうえで、その弊害を最小化し、「よりましな社会」を実現するために、再配分による社会的補正策をしっかりと構築することが必要です。
その意味では、<国家>の形態がどうのように変容するかを問題意識として持ちつつも、ある種の行政的権力が今後とも必要になるでしょう。
そのうえで、最も大事なのは、互酬関係がどこまで発展し、市場と行政の両者を埋没させていけるか、ということです。
抽象論では分かりにくいので、3.11東北大震災後の復旧支援の問題を例に上げて説明しましょう。具体例は、僕が糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」から得た情報に基づきます。
災害の復旧となると、基本的には政府・行政が中心となりますが、その非能率ぶりはどうしようもありません。全国から集まってくる物資を体育館などに奥から詰め込んでいき、後で取り出せず、腐らせたり廃棄したりすることなど日常茶飯事だそうです。それに対して、今回ヤマト運輸が名乗り出て、物資の集積と配達を請け負ったところは、日頃のノウハウが生きて、非常に効率的だったとか。
一方、西條剛央という若い学者が自ら創唱する「構造構成主義」という理論を用いて「ふんばろう東日本プロジェクト」を立ち上げ、全国からの支援物資を必要なところに届ける最大級のボランティア・システムを作りあげたり、自立支援の仕事プロジェクトをいくつも作ったりと大活躍しました。(ダイヤモンド社から発刊された『人を助けるすんごい仕組み』という書籍になっています。)
また、「ほぼ日」自身も気仙沼に支社を立ち上げ、地元の企業家有志や市民とタッグを組み、行政をも巻き込んで、「目黒のさんま祭」や「気仙沼さんま寄席」など面白い支援プロジェクトを展開しています。
つまり、自発的な協同行為のネットワークが企業(市場経済)や行政(政府)の活動を敵視したり、逆に従属したりするのでなく、主体性をもってそれらと協力し、場合によっては融合していくことが可能なのだということです。それがどの程度の力を持つかは、結局のところ、人々の力=民度にかかってきます。まだるっこいように見えても、そうした力を民衆が作り上げていく以外に世の中を変えることはできません。
栽培クラブは、大きく言えば、こうした自発的な協同行為のネットワークを様々な契機・地域・階層から作り上げていく一翼を担うものと言えるでしょう。それは自らをさらに発展させていくとともに、その成員が別の形で新たなネットワークをつくりだしていくきっかけとなったり、別のネットワークと協同したりするのです。
栽培クラブ永続宣言
以上の話で、栽培クラブが僕にとってライフワークであり、生きがいである、ということの意味がある程度お分かりいただけたと思います。
結成から5年。鳥居平栽培クラブは円熟期に入り、明野栽培クラブは躍進期に突入しようとしています。両者が一体となったグレイス栽培クラブは、個性的で多士済々なメンバーがいっそう親しくなり、協力しあうことによって、ますます発展していくでしょう。
会員一人ひとりの自己実現の場となり、中央葡萄酒にとって不可欠の得難い援軍となるとともに、山梨と日本の社会において小なりとはいえキラリと光る役割を果たしていくに違いありません。
幸い、今のところ、僕自身はまだまだ元気です。いつまで今の体力と気力(と酒量!)が続くかはわかりませんが、栽培クラブの永続的な発展に向けて、年齢を忘れて奮闘するつもりです。今後ともぜひ一緒にやっていきましょう。
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