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三田誠広の二つの文章に表現された僕の姿( 2010.9.24)

  • redvine
  • 2010年9月24日
  • 読了時間: 4分

更新日:2021年10月9日


高校の2年下の群像


 僕らが高校三年のとき、社研部に新入生が一人入部してきた。岩脇正人という男で、大阪市周辺部の自営業者の息子という点では、僕や牧野と似た環境の出であったが、二人よりもさらに政治的、思想的、文化的に早熟な少年であった。

 すぐに同じレベルでつきあう友人となったのだが、僕が京大に進学して革命的共産主義者同盟—マルクス主義学生同盟・中核派に所属したあと、組織が高校生運動を組織するというので、担当の活動家に彼を紹介した。

 中核派は当時、反戦高協という高校生組織を全国的につくろうとしていたのだが、岩脇は組織者としての能力を発揮して、大手前高校—反戦高協大阪府委員会を全国一の大拠点につくりあげた。

 岩脇とともにその中心となったのが、佐々木幹郎(現在、詩人として活躍中)や岡龍二(現在、リゾームLeeという名前でヒマラヤ在住の舞踏家)で、参加者のなかに後に京大に進んで68年10.8羽田闘争で死んだ山崎博昭や芥川賞作家となった三田誠広などがいた。

三田誠広の『高校時代』


 三田に『高校時代』という自伝的小説がある。もとは『蛍雪時代』に連載されたもので、その後、角川文庫や河出文庫になった。

 三田をモデルとする主人公「真」が岩脇=「熊沢」や佐々木=「狸穴」、岡=「竜岡」など個性的で早熟な友人にもまれながら自分を発見していく(小説家になろうと決意する)青春小説で、当時の大手前高校の雰囲気がよくわかる。

 また、青春期における「早熟」ということの意味を考えさせる作品でもある。

 この小説の中に、僕をモデルとする三年生の「高岸」が登場する。

 他人、後輩の目に、当時の僕がどう写ったか、引用してみよう。

 その三年生は、犬山も、鳳も初対面らしかった。ひどく背の高い、映画スターみたいな顔をした男だった。

「これは去年の社研部長で、高岸さん」と熊沢は紹介した。

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 高岸の口調は、小気味がよかった。高岸は三年生だ。いったい、二年後自分が三年生になって、こんなにスラスラと論争ができるようになるだろうかーーそう考えると、真は、ますます自分というものに自信がもてなくなるのだった。


「人間の死になにも感じなくなった男」

 実は、三田誠広には現実の僕を取り上げた文章がある。それに言及したいので、『高校時代』の気恥ずかしい文章も引用したのだ。

 その文章は、いま手元にないのだが、橋本憲二という男の死をめぐって、三田と僕が会ったときの話しがでてくる。

 橋本憲二は、三田とは関西の金持ちの子弟が通う私立小学校のとき(から)の友人で、僕とは、彼の兄=橋本利昭が僕の京大入学時の中核派キャップで、橋本利昭—僕—橋本憲二という系譜で、中核派関西の学生指導部が引き継がれてきた関係になる。

 この橋本憲二が、1981年1月に名神高速道路で車の故障で停車中、トラック運転手の居眠り運転で追突され、もう一人の同志とともに死亡するという事故があった。

 兄の利昭が当時地下潜行中であったため、家族と面識のある僕が両親との連絡や事故対策の任務を引き受けた。

 この過程で、三田から「橋本憲二が東大闘争安田講堂死守闘争で逮捕され、東京拘置所にいたころ、自分あてに来た手紙を中心に追悼本を出したい」という要請が家族にあった。

 しかし、その手紙類は、憲二がまだ若い活動家の頃に、子供時代の友人で小説家志望者である三田宛に書いたものであるため、運動と組織に関してわざとアイロニカルに表現する部分が多くあった。それは組織にとって、今や関西の学生組織の最高指導部としてあった彼を追悼するものとしてふさわしくない、と判断された。

 そこで、僕が三田に会って、出版を思いとどまるよう説得する役目を果たしたわけである。

 このときの印象を三田は、「長い間、対立党派と血を血で洗う殺し合いを重ねてきて、人が死ぬことに何も感じなくなった男」として描いてくれた。

 三田は大手前高校同窓会(金蘭会)の東京支部の会合にはときどき出席するらしい。

 昨年は僕も支部会報に寄稿したので、僕の現状を知っているかもしれない。もし、今度あったら三度目の印象をどう表現するだろうか?

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