僕の思想(家)遍歴
- redvine
- 2021年3月10日
- 読了時間: 35分
更新日:2021年10月13日
昨年末、僕はfacebookでの発信を開始した。
2011年に友人・神尾賢二が海外に移住するに際して、消息確認のツールとしてfacebookへの登録を求められ、ページだけは開設していた。しかし、当時は会社等への顧慮から不特定多数の人との交流を広げるつもりはなかったので、いっさいの「友達申請」を無視し、自分からは何一つ発信しなかった。
しかし、明野ヴィンヤード建設という新たな事業を開始するにあたり、現在ではウェブサイト(ホームページ)より圧倒的にfacebookやtwitter、instagramなどのSNSツールが重要であると進言された。それで、会社としてのfacebook公式ページを開設するまでのつなぎとして、個人ページでの発信を始めたのである。それに、目前の2月12日に神尾の1周忌が迫っていることもあり、コロナ情勢との関係でオンライン開催と決めた1周忌イベントの告知をfacebookを通じて広げたいという気持ちもあった。
発信を開始すると、栽培クラブ会員やワイン関係者、地元の知人、10・8山崎博昭プロジェクト関係者などとともに、かつての運動関係者などの「友達」が増えた。
そうした人たちに日々の農場建設の情報とともに、2月23日から3月9日までの間、毎日発信したものが「思想(家)遍歴」の連載記事である。
朝8時前に作業のため自宅を出る直前に発信することを心がけたので、ほぼ毎回、未明の数時間で一気に書き上げた。だから下書きもないし、推敲もしていない。サイトにまとめて再録するにあたって手を加えようかとも思ったが、やらないことにした。目的が「論」を提示することではなく、僕の行動の背景を説明するものだからである。(2021年3月10日記)
(1)斎藤幸平
4月植樹・開園に向け作業や諸準備に忙しい時期ですが、現代世界・社会に対する考え方や自分の行動原理などについて、影響を受けた思想家について語るという方法でこれから何回か綴っていくことにします。
まずは最近話題の斎藤幸平から。
昨年出版した『人新世の資本論』がベストセラーになり、NHK「100分de名著」のマルクス『資本論』解説が話題になるなど、久々に出現した左翼・リベラル界の理論的スターでしょう。一般的人気が高い一方、元々の左派理論家からは辛口の批評を受けています。
実は、僕自身が74歳になって「あと5年〜10年をかけて新たな挑戦」に挑む決意をしたきっかけの一つが彼の著書でした。一昨年8月『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』(集英社新書)を読み、特にマイケル・ハートとの討論における欧米における新たな社会運動の発展、<「コモン」の民主的な協同管理>という視点に実践的な刺激を受けたのです。
つまり、中央葡萄酒という会社の事業を前提にした「栽培クラブ」の活動で終わるのではなく、自前の事業=運動を作りたい、みんなと新しい協同関係を作り出したいと思ったわけです。
このように彼の著書には、環境問題を焦点にX世代(若者)を実践に向かわせるだけでなく、僕らのようにすれた老人の心をも踊らせるような魅力があるのですね。(その思いに最終的なバネを与えてくれたのが同年12月のアフガンにおける中村晢さんの襲撃死でした。全く同年齢の彼が「あと20年は続ける」と語っていたことを知り、身体が動く限り、挑戦し続けなければならないと決意したのです。)
とはいえ、斎藤の言説の全てに同意しているわけではありません。
我々が資本主義に生きながら、資本主義と対決しようとする場合、「資本」の分析に挑んだマルクスの業績が前提になることは当然です。しかし、マルクスの言説を主語にしたり、「正しいマルクス解釈は」などという発想はもうやめるべきでしょう。
また、僕は、思想とはその人の人生・生き方・経験と切り離してありえないと考えます。誰にとっても正しい思想とか、誰もが認めなければならない理論、などというものはありえないと考えるようになりました。
もう本日の始動の時間になりました。
これから、「自分にとって切実な思想とは何か」、「あの時、この思想家と出会ったことが決定的だった」という観点から、高校時代からの人生を振り返ってみたいと思います。
(2)吉本隆明と竹内芳郎
僕の人生の骨格を形成したのは、牧野や神尾らとの人間関係を含めて高校時代の3年間です。この過程については、個人サイトですでに詳述しています。
【当サイトの「高校時代の思想的模索」】
僕らの世代で珍しくありませんが、吉本隆明の影響はやはり圧倒的でした。僕の場合は、マルクスや安保闘争、革命などへの関心も吉本経由だったとさえ言えるかもしれません。ただ、それがなぜなのか、どういう内容なのかは、人それぞれに違うでしょう。
僕の場合は、彼の言説の個々の内容というより、文体も含めての生き方として感じと取られました。生活においてはあくまで庶民・常民として生きながら(「大衆の原像」)、思想的には一方で世界水準の知の地平を追求しつつ、他方でそれを自分の経験に根づいたものしていく。そこからくる、全世界を相手に回しても個人として対峙するという覚悟(「自立の思想」)に惹かれたのでしょう。
だから、彼がベトナム反戦闘争や70年闘争に冷淡であったり、その後、高度資本主義の消費生活を肯定したり、反核運動を批判したりして、政治的立場において支持できなくなっても、尊敬の念は変わりませんでした。
個人的には、二度講演会に参加した以外は、直接に会ったことはありません。ただ、牧野の遺稿集を作った時、1部を献本として郵送しました。彼が学生運動の中で迷っていたとき、さらに職業人として地道に生きながら、読書を重ねて自分の課題を考えていたとき、つねに吉本の思想と向き合っていたことを知ってもらいたかったからです。かすかに、ですが、返事を期待してもいたのです。でも、反応はありませんでした。
一方、竹内芳郎については、中之島図書館で見つけて集中的に読み込んだ『実存的自由の冒険』(現代思潮社刊)の影響に尽きます。
サルトルの実存主義は我々の少し前の世代の知的主潮流でしたが、僕にとっては「あまりに当たり前」という感覚でした。伝統ないし束縛という点でも、窮迫ないし必要という点でも、僕にとって既存の人生コース(就職・出世・金儲け)を強制するものは何もありませんでした。<全ては自分の決断に任せられている>という感覚の中で、<マルクス─新左翼─革命>という方向性も定まっていました。この理路を埋めるものとして、ニーチェ、ベルグソン、サルトル、マルクスを取り上げたこの著書が<ニヒリズムから社会と歴史の全体性へ>の道を提供してくれたのです。
竹内については、ベトナム反戦闘争の時代、中原浩というペンネームによる政治文章をいくつか読んで親近感を感じていましたが、その後消息を聞かなくなりました。それが近年関わり出した「10・8山﨑博昭プロジェクト」の賛同人として名前を見たときには驚き嬉しかったものです。そして『天皇教的精神風土との対決』(1999年 三元社刊)という近著を読み、「討論塾」という私塾を主宰していることを知り、ひょっとして出会うこともあるかもしれないと期待したのです。しかし残念なことに間も無く、2016年、逝去の知らせを聞いた次第です。
(3)梅本克己
安保ブントシンパであった僕が中核派を選択した直接のきっかけが、梅本克己の『現代思想入門』を学習するサークル(=中核派京大支部)に入ったことだと、これまでも説明してきました。しかし、そういう契機がなくとも梅本の著作にのめり込むのは必然だったでしょう。
梅本は文学・哲学・思想の分野で大きな影響をもった「戦後主体性論争」の主役の一人で、日本共産党系=スターリン主義の客観主義=歴史法則必然論に異を唱えた哲学者です。人間解放という主体的契機を重視した、いわゆる疎外論マルクス主義者の代表格で、60年安保後は反日共系新左翼の応援団的存在でした。
人が共産主義や革命を志向するには、その人固有の契機があって当然です。僕の場合、時代・家庭環境・個性が「実存の不安」から「社会変革=自己変革を目指す革命」への「投企」を決意させたのであって、これを客観視することが必要だとしても、否定する必要はありません。ただ、他の人は別の契機で参加するし、運動全体は別の論理で進行することを自覚する必要があるだけです。
梅本がこだわり論理化し解明しようとしたのは、この「自分の論理」から「他者・全体の論理・構造」への橋渡しはいかに可能なのか、ということでした(「過渡期の意識」)。だからこそ、僕のような根っからの実存派が運動に没頭し、そこで他者と関係し、社会全体の構造解明に取り組みだすに際して、梅本の著作との格闘が必然だったわけです。
ここでは、梅本哲学の中身に入るのはやめて、新左翼の運動全体や僕自身の活動との関係で梅本さんが果たした一番大きな役割に触れます。それは、「運動の倫理性」です。学問分野として倫理学者であった梅本さんは、新左翼の応援団であるとともに倫理的な「お目付役」でもありました。その彼が人生の最後に全てを賭けたのが、「内ゲバ」の阻止、特に「中核・革マル戦争」の仲裁でした。
高知聡が主導した「仲裁」の動きは、明確に革マルの組織的企図に沿ったものでした。梅本さんは心情的中核派シンパであることを隠さず、革マルの問題点を指摘しながらも、中核派に「海老原問題」の自己批判を迫り、「いったん解体を覚悟した出直し」を忠告したのです。
これは中核派によって完全に拒否され、全面戦争に突入していきます。そして詳しい事情は知らないものの、梅本さんは苦悩のうちに亡くなられたそうです。
僕は今日、革マル派と対決し勝利するためにこそ、中核派は「解体的出直し」を決意すべきだったと考えています。(「映画『きみが死んだあとで』完成にあたって」の後半・大阪集会での発言をめぐって参照)
中核派の先頭で活動していた時、常に指導方針に違和感を持っていたことがあります。それは、どんな闘争も「勝利」と総括し、人数を何倍にも誇張して報告し、過ちを公表しない、などの作風です。
疑問を提出すると「それが政治だ」とか「そんなことをすると組織が持たない」などと返事が返ってきます。
しかし、自分の弱さを認めることで人は強くなれるし、正直で率直であることで組織への信頼も増すはずなのです。
実は、革共同にもそう考える人は多くいたし、指導部の中にもそんな人がいたはずなのです。僕は中央指導部の内情について殆ど知らないのですが、少なくとも陶山健一さんがそういう人格であったことは知っています。
あの当時、中核派が「自己批判と解体的出直し」に踏み切ることは、革マルとの関係で死ぬほど悔しいことだし、一時的には党勢の減少に繋がったでしょう。しかし、組織の骨格を形成していた労働者組織をはじめ、殆どの党員はここが踏ん張りどころと覚悟して耐え抜いたはずです。
僕は、政治を倫理で語るだけですまないことも理解するし、いわゆる「倫理主義」で自他に迫ることの過ちを身にしみて経験してきました。政治活動は最終的には、結果責任の世界です。しかし、倫理的正当性を失う時、革命運動は全てを失います。
(4)黒田寛一
実はこの人には全く影響されなかったのですが、順序として書いておく必要があるでしょう。
僕がマル学同中核派に加盟した1965年(革共同加盟は翌66年)は、革マル派との分裂後まだ2年しか経っていません。したがって革共同創設の理論的基礎になった黒田寛一の思想そのものを当時の中核派は否定していませんでした。『社会観の探求』『プロレタリア的人間の論理』『マルクス主義形成の論理』などは依然として学習文献に指定されていたのです。
しかし関西では、奈良女以外に革マル派が殆ど存在せず、中核派指導部も安保ブント出身者が主流だったので、日常的にはクロカンも革マルも無縁な存在でした。京大にたった一人いた革マル同盟員がしつこくオルグしてきましたが、(北)ベトナム人民の闘いをスターリン主義として切り捨てる感性だけで、話をする気にもなりませんでした。
若き日の黒田の著書そのものは『経済学哲学草稿』などのマルクス理解のサブテキスト的(あらすじ書き的な感じ)には役立ちました。しかし、革命のためには前衛党の建設が不可欠かつ前提となり、それは賃労働者としての自覚(資本との直接的利害対立から始まり、本源的蓄積過程での収奪へ怒りに遡る)をマルクス主義の学習を通して拡大再生産していくことであるという、同心円的サークル主義的党建設論には何の魅力も感じなかったのです。
70年頃までの総括としては、これだけのものでしかありません。
しかし、その後の永い革マル派との戦いを通して、黒田思想がある種の人間(自己意識の強い主知主義的タイプ)にとって骨がらみの強さとなる魅力を持つことを痛感せざるを得ませんでした。
また僕は、革マル派とは何であった(ある)のか、ということは今日でも重大な問題であり、それは黒田思想の問題と稀有の労働運動家的能力を持った松崎明との関係を軸に考察されるべきものと思います。
最近では松崎に関する様々な研究も出てきたようです。
ただし、僕自身が残された貴重な時間をそんな解明にあてるつもりはありません。
(5)(宇野)経済学
10.8当時から山﨑博昭が羽田闘争参加に携えていった書籍のことが話題になりました。
マルクス『経済学・哲学草稿』、トロツキー『ロシア革命史Ⅰ』、レーニン『なにをなすべきか?』、宇野弘蔵『マルクス経済学・原理論の研究』、同『経済政策論』、朝日新聞社『アメリカ戦略下の沖縄』、キルケゴール『誘惑者の手記』、シュクラール『ユートピア以後─政治思想の没落』の8冊と教科書、合計10冊です。
山崎の生真面目な勉強家ぶりがわかるとともに、当時の学生運動家(とくに中核派)の必読書リストがわかります。
それにしても今日から見れば、マルクス・トロツキー・レーニンという歴史上の革命家3巨人に続いて、東京大学経済学部教授の研究書(教科書)2冊が並んでいることは異様と言わなければなりません。しかしある時期まで、宇野弘蔵の経済学は梅本らの哲学と並んで、日本におけるスターリン主義批判・新左翼運動の知的源泉のひとつとされるとともに、打倒対象としての資本主義を分析する最良のツールを提供するものとして評価されていたのです。
宇野経済学の核心をなす<原理論─段階論─現状分析>という三段階論や評価の分かれる<原理論の純粋資本主義論としての純化>や<科学としての資本論>などの内容については、ここでは立ち入りません。
いずれにせよ、吉本→梅本の思想的系譜でマルクス主義を受容し、革命運動に参加した僕も、当然のこととして、宇野弘蔵を出発点として経済学を学ばなければなりませんでした。
とくに当時は、宇野学派の異端者・岩田弘の主唱する<世界資本主義論>に基づく<危機論─決戦論>が新左翼全体に影響を与え、中核派の場合は<帝国主義戦争不可避論─日本帝国主義の侵略戦争前夜論>となって、<戦争・侵略を内乱へ>戦略や武装闘争の必要性に結びつけられました。だから自分なりに現状分析できる理論的根拠が必要とされたのです。
学ぶという意味では、のちに獄中で仲間と『資本論』学習会を組織して全3巻を精読しましたし、現状分析という点では宇野学派・左派(?)が創刊した雑誌『経済学批判』を通読し、主に降旗節雄の主張を参考にしていました。
それでも結局、僕は経済学というものに心を奪われることはありませんでした。
むしろ、(理論)経済学者として成功した人が経済学を疑う視点を含めて回顧する書物や人物評伝を読むのが好きです。
宇沢弘文『経済と人間の旅』(日本経済新聞出版社)、佐々木実『資本主義と闘った男─宇沢弘文と経済学の世界』(講談社)、青木昌彦『私の履歴書 人生越境ゲーム』(日本経済新聞出版社)、岩井克人『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社)等々。
(6)中核派の理論と理論家
僕自身の思想遍歴を先行させましたが、黒田哲学と宇野経済学を巡る問題は中核派全体にとっても理論的に最大の課題でした。
黒田哲学から出発した革共同(全国委員会)は、安保ブント崩壊以降、ブント・第4インターの一部などを合流させて新左翼の最大多数派になります。黒田との決別─革マルとの分裂によって学生戦線と国鉄労働者戦線は大打撃を受けますが、労働者の基本組織は健在で、むしろ黒田理論・セクト主義からの脱却により階級闘争全体への取り組みを前進させ、新たな実践的課題と結びついて理論活動の深化も追求されました。日本帝国主義にとっての日米安保同盟政策の重大さの位置付け直しや日韓闘争を契機とする民族植民地問題への取り組みなどは、重要な成果と言えます。
また純理論的問題においても、1966年9月の第3回大会の総括報告では、①「宇野経済学」の理論的水準を自らのものとし、現代資本主義の解明の力をつけること ②黒田理論、特に哲学者としての黒田寛一の業績を、今日の時点で正しく位置づけることを、最も重要な理論的課題として明記しています。
この時点までが、中核派が指導部間や組織全体での討議を活発に行い、問題点も率直に開示していた時期と言えます。また、理論問題の討論や追究を分担はあっても政治指導部間(本多延嘉書記長、清水丈夫・陶山健一各政治局員など)で行い、理論専門の指導者がいないのが特徴でした。
それが10・8を突破口とする激闘の連続の中で、理論問題をそれとして追求する努力がおざなりになり、政治的必要性によって理論問題をも扱う体質に変化していったと感じます。独自の理論活動を展開していた関西の小川(竹中)さんらを追放したことも影響したでしょう。
とくに学生戦線の現場では、国家権力との激突や党派闘争の熾烈化によって落ち着いて学習する余裕すらなくなり、活動家の疲弊や無理論化が顕著になっていきます。
当時から中核派を「単ゲバ(単純ゲバルト)派」とか「肉体派」と評する批判が他党派によってなされましたが、指導部の理論的素養や力量という点からみれば、むしろ他党派を圧倒していたでしょう。また、何よりも運動を通して、とくに国家権力との闘いの最先頭にたつことによって大衆を獲得していく方針が間違っているはずはありません。
ただ、独自の領域として確認されるべき理論追求と理論指導への努力がおろそかになっていったことは否めません。
こうした中で、地方の活動家であった僕から見て、中央指導部が将来の理論家育成のために決定したのだな、と推測される人事がありました。僕と殆ど同世代で、大学での運動基盤がなく大衆運動的力量は未知数だが知的に優秀な東大生二人が、一人は機関紙「前進」や理論機関誌『共産主義者』に、一人はマル学同の機関誌『中核』に論文を発表するようになったのです。
前者を秋口純(ペンネーム)と言い、後者が先に革マル・黒田・松崎についてコメントしてくれた塩川伸明氏の若き日でした。
しかし、聡明であるがゆえにでしょう、両者とも時期を違えてですが、やがて組織を離れます。僕自身は両者とも、当時も現在も個人的な付き合いはありません。ただ、全く違ったかたちであれ、両者ともその後誠実な人生を歩んだことを知っています。
そして、これ以降、中核派には本格的な理論家がいなくなったと言わざるを得ません。
(7)内山節
僕の遍歴は、これから学問分野としては哲学・経済学から社会学・歴史学・社会主義論の方向へ進みます。ただその前に、異色の哲学者・内山節に関するいくつかのエピソードついて書いてみたいと思います。
70年代のある時期、京大の中核派BOXに若い男性がフラリと現れ、『労働過程論ノート マルクス主義哲学の構築のために』と題されたパンフレットを示し、読んでくれませんか、と差し出しました。聞けば、反戦高協出身の元活動家が大学に進まず、自力で独自の理論活動に専念しているとのこと。
受け取って目を通して、問題意識に共感したものの、それ以上の関係には進みませんでした。(ただし、この男性が内山本人か、共鳴してパンフを広げていた他人だったのかの記憶は定かでありません。)
その後、そのパンフレットの著者・内山節が在野の哲学者として何冊かの興味深い著書を出版するのに出会います。一つあげれば、『哲学の冒険』(1985年毎日新聞社)です。この本は83年から84年にかけて「毎日中学生新聞」に連載された原稿をもとに書き直されたもので、中学生にも分かるような表現で現代哲学は何を考えなければいけないのかを追求し続けた好著です。
梅本克己の影響を強く受けた彼の思考に共感するところが多く、在野・市井の哲学者としてのあり方も好ましく思いました。しかし、渓流釣りなどの縁から群馬県上野村に住み、自然との対話を重視していく流れに、僕とは違う方向にどんどん進んでいくなあと感じたものです。
さて、90〜93年、僕は東京で革共同での最後の活動として、外郭雑誌である『破防法研究』を終刊し、より広範な読者層を対象にした雑誌『季刊シリウス』を創刊する仕事に取り組みます。
その連載コラムの「労働問題」執筆者に竹内静子を起用することを提案しました。三一新書『反戦派高校生』の筆者として親近感を感じるようになり、その後『戦後社会の基礎構造』(1978年田端書店)など賃労働の構造の問題を追求する著作に注目していたからです。
そこで住所を調べて訪れてみると、なんと表札が内山節と並んだ同居の家だったのです。調べると、伴侶であることを公表し、共著までありました。(『反戦派高校生』執筆の際の取材が出会いのきっかけとのこと)
数回訪問したものの留守続きで、最後は手紙をポストに投函して連絡を待ったのですが、返事は来ませんでした。結局コラムの筆者は、他の編集員のコネで労働問題新聞記者となったのです。
ついでに書いておくと、このコラムの「科学・技術」執筆者に河宮信郎(安保ブントメンバーで中京大教授)を起用したことが、三里塚闘争の話し合い路線の推進者だとして、政治局による発売中止・廃刊命令に繋がり、僕の革共同からの離脱に至ったわけです。
その後、中央葡萄酒に就職した僕は、会社の事業の中で内山と直接出会うことになります。
彼は1996年大熊孝・鬼頭秀一と「三人委員会哲学塾」を結成し、「欧米の近代思想を、欧米ローカルな思想として見ながら、地域と人間の関係を軸にして多元的な思想を創造していくことにより、自然、人間、社会をつかむ思想潮流を創りだす」活動を推進します。これが各地の自治体関係者や企業家、地域おこし活動家に大きな影響を与えるのです。三澤社長もその一人でした。
山梨県にもその活動が広がり、2013〜14年と2年連続で「塾」が清里の清泉寮で開催された機会に、三澤社長は自社の勝沼ワイナリーホールでも内山の講演会を開催します。
講演会の後、少し話をしました。社長も同席の場だったので、立ち入った話にはならなかったのですが、向こうも僕のことを覚えているようでした。
「哲学は学問として学ぶためにあるのではなく、美しく生きるためにある」と説く内山哲学は、学会とは無縁に、現代日本における思想的一大潮流をなしています。農山漁村文化協会(農文協)から内山節著作集全15巻が発刊され、ファンクラブ本の趣の『哲学者内山節の世界』(2014年新評論)まであります。
僕自身が自然の中で<農>を軸として生活するようになった現在、改めて彼の著作を読み返そうかと思っているところです。
(8)予告というか前半
一日一話のペースで書いてきましたが、昼間の畑作業、夜の事務・広報・会議などの仕事との関係では、無理するべきではないでしょう。
次回のテーマと問題意識だけ先行して書いておきます。
思想家としては湯浅赳男を取り上げ、彼を起点にマックス・ウェーバーに目覚め、社会学全般の探求に進んだことを述べます。
その際、問題意識の核になったのは、「スターリン主義とは何か」、「<反帝国主義・反スターリン主義>を革命戦略にするとは、どういうことか?」という問いでした。
ソ連や中国に憧れたことがなく、共産党への尊敬もなかった僕(らの世代)にとって、「反スターリン主義」は当然のことでした。
ソ連共産党がスターリン批判を公表して以降、「個人独裁」「官僚主義」への批判が社会常識となる中で、革共同及びブントは「一国社会主義建設論をテコとする世界革命の裏切り・敵対」をスターリン主義の本質として対置したわけです。
その意義は理解できますが、中ソ対立やベトナム民族解放・革命戦争の展開などいわゆる体制としてのスターリン主義もドラスティックに変化していきます。
いっぽう、組織活動を展開していく中で、スターリン主義を外在的に捉えるべきではない、という問題意識が強くなってきます。
こういうときに出会ったのが、湯浅赳男の『スターリニズム生成の構造』(1971年三一書房)です。湯浅については69年出版の『トロツキズムの史的展開』から読んでいて、第4インター系の研究者であることは知っていました。
(9)湯浅赳男
『スターリニズム生成の構造』は、スターリン主義確立の過程をロシア共産党(ボリシェビキ)における官僚制的変質に焦点を当て、ウェーバー社会学における<カリスマ的官僚制>の理念型を分析概念として考察したものです。
教祖=<カリスマ>、誓約者集団=<ゼクテ>、教権制組織=<キルへ>などの概念を駆使した分析は鮮やかで、それまでのロシア革命史学習の中で感じていたレーニン指導下のボリシェビキがスターリン書記局に支配されていく過程での「連続と変質」の問題について腑に落ちて理解させてくれました。
湯浅に関してはそのほか『民族問題の史的構造』(1973年)、『革命の社会学』(1975年)、『第三世界の経済構造』(1976年)、『天皇制の比較史的研究』(1978年)などを読みました。
いずれも<資本─賃労働>という資本主義の基本関係からは周縁とされているものの現代革命にとって核心的な問題について、社会学の観点から考察したものです。
それまで、<社会学>を階級的視点が欠落しているとか、現状解釈学であるとして無視ないし敵視していた左翼の伝統から僕も無縁ではありませんでした。また、ロシア革命、特に内戦下におけるレーニンやトロツキーの実践とスターリン体制下の現実との連続性を主張する評論に対しては、断固反対していました。こういう現実問題は、実践主体の目的志向性を抜きに解決できないからです。
確かに、運動においては実践的にしか解決できない問題があるのです。しかしその場合、実践主体が社会学的な不可避的傾向性を意識しているか、いないかでは実践の方向が変わってきます。主観的な革命性、目的志向性だけではダメなのです。
現在、僕はスターリン主義を20世紀における国際共産主義運動の現存形態=疎外形態であり、イデオロギー、運動、体制等の構造を持ち、生成・確立・展開・破産の歴史を持った全体像と定義しています。
そして<反スターリン主義>とは、現代において共産主義・革命を目標とすることは、その現存形態が疎外形態でしかないという現実、本来の理念像が実際には実現されたことがないという現実を直視することからしか始まらないという<綱領的反省契機>だと理解しています。
つまり、<反スタ>の視点を持たなければ絶対にダメだが、<反スタ>を唱えているだけでは何一つ問題解決が保証されないということです。
(10)マックス・ウェーバー、大塚久雄、ユルゲン・ハーパーマス
今回は、思想遍歴というよりは、湯浅赳男をきっかけに社会学を勉強したというお話です。
マックス・ウェーバーがマルクスと並び称される社会科学の巨人であり、日本の社会・人文科学における最大の方法的問題としてマルクス=ウェーバー問題があるということはもちろん知っていました。しかし活動に忙殺されている間は、体系的に読書する時間が取れません。
幸か不幸か、僕は1976年〜80年、81年〜82年の間、まる5年間獄中生活、それも大半は懲役労働をしなくてすむ未決勾留生活を送りました。
それで、最初は共産主義者としての義務のように、レーニン全集や資本論の学習をしていたのですが、そのうち時事的な評論書を読む以外は、ウェーバー社会学、大塚歴史学を体系的に読み、さらに岩波の叢書などを中心に世界史について通史的・問題史的な勉強をしていくようになりました。
それとは別個な契機からフランクフルト学派を受け継ぐユルゲン・ハーパーマスの主著『コミュニケイション的行為の理論』にも挑戦しました。それは訳者の河上倫逸氏との縁です。
彼は、歳は僕より一つ上なのですが、早大に1年通ったあと辞めて京大に入り直したので、学年では1年下になります。最初から老成したタイプなので、活動家にはならなかったものの、学者(京大法学部教授)になってからも時々は会うような関係で、ハーパーマスを勧められたのです。
そんな社会学の読書の中で、思想的に最も影響を受けた見田宗介=真木悠介と出会うわけですが、それは次回に回します。
(11)見田宗介(1)
現在の僕が最も大きな影響を受けた思想家といえば、見田宗介ということになります。長年東大の社会学を牽引してきた、衆目の一致するところ、日本の社会学の第一人者でしょう。しかし、自分を学問に突き動かしてきた原問題を<ニヒリズムとエゴイズムからの解放>と明言し、<コミューン>と<最適社会>の概念を軸に<人間の解放>を一貫して問題としてきた異色の学者です。
僕は二つの時期・方向で大きな影響を受けるのですが、まず最初は、1971年に真木悠介の筆名で出版した『人間解放の理論のために』(筑摩書房)です。
これまで述べてきたように、僕は自分の実存的感覚を根拠に<人間の解放>を課題とし、それをマルクスの労働疎外論の論理(労働者の生産手段からの疎外が生産物からの疎外、労働そのものの疎外、人間自身からの自己疎外をもたらす)をテコに、プロレタリア革命による資本主義の打倒=労働力商品化の廃絶=共産主義社会の建設によって実現するというマルクス主義の信条を受容して共産主義者・革命家たらんと決意しました。
そしていったん決意して以降は、もっぱらいかに資本主義を打倒するかという革命論(情勢分析や革命戦略、前衛党論など)を問題にし、活動に奔走してきたわけです。
しかし、活動の中でいくつもの問題にぶつかり、世界・歴史の複雑さを知り、マルクス「主義」だけではない理論を学んでいく中で、自分の信念の揺らぎに直面します。
揺らぎは大きくは二つの問題領域で、一つは<人間の解放>とは実のところ何なのか? ということであり、もう一つは、プロレタリア世界革命→共産主義社会は果たして実現可能なのか? ということです。
見田の『人間解放の理論のために』はまずは前者の問題領域に、問題の所在と解明の糸口を与えてくれたのです。
この著書で展開される「人間的欲求の構造」についての総体的な把握や「未来像のための公準」といった内容について、ここで具体的に展開することはできません。
それは貧困や戦争の克服など、生命体としての人間の本源的な必要の充足から始まり、<創造><愛>及び<自己統合>といった人間の「実存的」位相の要求の充足に至るまでの課題をトータルに、一貫した方法で捉えたものです。
翻って考えてみれば、梅本克己のところで問題とした<「自分の論理」から「他者・全体の論理・構造」への橋渡しはいかに可能なのか>という僕の初発の問題意識に社会科学の言葉で回答を与えようとするものだったと言えるでしょう。
次の時期・方向というのは、岩波新書三部作(『現代社会の理論─情報化・消費化社会の現在と未来」(1996年)、『社会学入門─人間と社会の未来』(2006年)、『現代社会はどこに向かうか─高原の見晴らしを切り開くこと』(2018年))との関係になりますが、それを論じる前に、いくつか回り道をします。
(12)民族問題と社会主義論
今回は特定の思想家ではなく、問題領域として考え続けてきたことです。
前回、「共産主義者としての信念のゆらぎ」の二ツ目として「プロレタリア世界革命→共産主義社会は果たして実現可能なのか? 」という問題について触れました。
革共同やブントがスターリン主義の流れの中から、それを批判して独立・決起するとき、日共の一国社会主義に対して世界革命を、民主主義革命から社会主義革命への二段階革命路線に対してプロレタリア社会主義革命路線を、議会主義路線に対して暴力革命路線を、というマルクス・レーニン主義の原則の復権を対置しました。その意味では、「新左翼」というイギリスの運動由来の呼称よりは、「古典左翼」「原理主義左翼」といった呼称の方がふさわしい側面があります。(60年安保闘争も1968年運動=70年安保・沖縄・大学闘争も運動実態及び参加主体の意識と指導党派の理念の間には乖離があります。)
古典マルクス主義は「労働者には祖国がない」という素朴なプロレタリア国際主義ですが、その根拠には全ての国・民族が同じような発展段階をたどるという単線的発展史観がありました。
それに対してレーニンは、帝国主義段階論に基づいて抑圧民族と非抑圧民族を区別し、非抑圧民族の解放は帝国主義の植民地支配の打倒なしにあり得ないこと、逆に抑圧民族の労働者の解放は非抑圧民族の自決を支持し、自国愛国主義・排外主義と闘うことなしにあり得ないことを強調しました。
65年日韓闘争以来、革共同はこの問題を重要視し、僕もその点は大賛成でした。しかし、世界史と民族問題の学習は、帝国主義と植民地という関係性だけにとどまらない多様性と固有性を浮かび上がらせます。
僕にとって決定的だったのは、金芝河(キムジハ)支援の闘いでした。韓国の独裁政権と闘う人民の象徴として、支援の活動に取り組んだのですが、詩人・金芝河の実像を知れば知るほど「抑圧民族と非抑圧民族」の関係性の中で捉えるより、「同時代人としての共通性」に対する共感、その中での「金芝河という個性」に対する連帯、の感覚の方が大切に思えるようになったのです。
戦後世界体制における帝国主義の中東支配との闘いという文脈の中で取り組んだアラブ・パレスティナ・イスラエル・イランの問題についても、その視点だけに収まらない民族問題・宗教問題の固有性・多様性が見えてきました。
要するに、国際主義の精神は決定的に大切だが、それは単純にプロレタリアートの普遍的共通性に基づく単一の世界革命というわけにはいかないと思うようになったわけです。
一方、社会主義論というのは、ソ連・中国がニセの社会主義だというのはいいとして、本当の社会主義・共産主義とはどんな社会か、どのようにして実現されるのか、という問題です。
そのアプローチにも大きく言えば3種類の方法があるはずです。
一つは、経済学のみならず人類学的知見に基づいて、社会・経済を組織するシステムを理論的に考察すること(市場・分配・互酬、商品・価値・価格・労働力など)。
二つは、既存社会主義(ソ連や中国、ユーゴ自主管理社会主義などを含め)の政策と現実を検証すること。
三つは、資本主義社会の中での協同社会的セクターの経験を検証すること。
僕自身は、どれも少し齧っただけで、偉そうなことは言えません。しかし、少なくとも、商品・市場を廃絶した計画経済的分配の社会ではないこと、また、現にある社会の中での協同社会的要素の積み上げなくして、政治権力獲得後の政策としては実現され得ないことは明らかでしょう。
(13) 個人的資質と人間観
ここまで自分の思想(家)遍歴の跡を辿ってきてつくづく思うのは、僕の理論家的資質の脆弱さです。問題意識はそこそこある方だと思うのですが、その問題にとことんこだわり、深く考え抜き、粘り強く追求する力が弱いのですね。ですから、この文章で「他人が到達していない正しい認識や理論」を伝えているつもりは全くありません。
自分の<資質>ということについて考えざるを得なくなったのは20代の後半頃からで、そのことについて初めて公にしたのが、個人サイトに収録してある「父を語る」という文章です。獄中生活時代に父が脳卒中で倒れ、リハビリ期間に「作文教室」に通ったことがきっかけで発行されることになった雑文集に寄稿したものです。
子供の頃から、母については人間的に尊敬していましたが、父については「悪人ではなく、世間的に言えば<いい人>の部類に入るだろうが、大したことのない俗物」と認識して、ああいう大人には絶対になるまい、と思い続けてきました。
ところが、いつの頃からか、気づけば自分も同じ「大したことのない俗物」の部類だと思い知るようになったのです。
それでもそんな資質だからこれまで無事に生き抜いてこれたとも思うのです。やってきたことについてトコトンこだわり考え抜く性格だったら、自分の精神を健康に維持できたか、大いに疑問です。
つれあいとの話では「5分間以上悩まないのが信条」と言ったりしますが、突き詰めて考えぬかないうちに決断して行動に移してしまいます。
その際、行動することへのためらいとか、自分や周辺の未来がどうなるかわからない不安や恐怖とかを殆ど感じないのですね。それが美点か欠点かは分かりませんが、僕の行動家としての特質なのでしょう。
高校時代の総括に「自己変革は生存の当為ではなく、生存そのもの」と書き、組織生活においては「あるべき革命的前衛像への自己変革」を自他に強制してきたのに、気付けば、自己の資質に「じっくり付き合っていく以外ない」と思い定めたわけです。
こうした変化は、自分のことだけでなく、人間一般に対する考えたかた・人間観の変化とも連動しています。
革命への希求というのは、多くの場合、苛烈な変革の過程で示される崇高な人間像への共感や憧れ、自己犠牲的献身性や同志的友愛精神の高揚と結びついています。ただ、人は永続的・恒常的にそのような輝きを維持し続けられません。世界の革命運動や解放闘争の歴史を見ても、自分が経験した組織活動の内実を振り返っても、平時への移行や日常化の継続によって、必ず惰性や陳腐化、停滞や腐敗と無縁ではなくなります。
もちろん、「人間、結局は色と欲さ」とか「最終的にはカネが全てだ」などという人間観に立つわけではありません。しかし、人間というのは「清らかなもの、美しいもの、正しいこと」への共感や希求を持ちつつも、根本的なところでは「大したことのない俗物」であり、それでいいのではないか、と思うようになりました。
だから僕は、活動家や批評家の一部にある「権力に対して不十分にしか闘わない人」を非難したり、「悪への沈黙は肯定・加担と同じだ」と攻撃するような傾向に反対です。また、自分が<これこそが大切>と思う課題を他人に押し付ける態度も好きになれません。
この連載の始めに「僕は、思想とはその人の人生・生き方・経験と切り離してありえないと考えます。誰にとっても正しい思想とか、誰もが認めなければならない理論、などというものはありえないと考えるようになりました。」と書きました。
以上述べてきたような、遍歴と人間観の変化の上で、最終回として見田宗介に再びたどり着いたことになります。
(14)見田宗介(2)
先に紹介した岩波新書の3部作はどれも重要な著書ですし、僕が大きな影響を受けたものです。『現代社会の理論』での情報化・消費化社会の光と陰の分析も、『社会学入門』と『現代社会はどこに向かうか』でのロジスティック曲線(S字曲線)理論をも駆使した人類史の現段階の分析=後期定常化社会への過渡期論も説得力のあるものです。
しかしここでは、これまでの議論に直結する未来社会像とそれに至る実践論に話を絞ります。具体的には、主に『社会学入門』で提起される未来社会像について、この(2)で、そして『現代社会はどこに向かうか』で提起される実践論について次回(3)で述べることにします。
見田は『社会学入門』で、社会の理想的なあり方を考える場合、一方で「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求 し、現実のうちに実現することをめざす」という発想と、他方で「人間が相互に他者として生きるということから来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルール を明確化していこう」という発想があるけれども、その両方を、どちらか一方に還元しないでともに追求する必要があるということを述べています。そして彼はその社 会モデルを「交響するコミューン・の・自由な連合体」という言葉で表現します。
あるべき未来社会を社会構成的な原理で考えると、<交換><再分配><互酬(さらに贈与)>という人類学的システムの今日的な形態である<市場><行政><協同>という三つのセクターの相互関係をどう組み直していくか、ということになるでしょう。
かつてのように、<市場─商品経済>と<権力─計画経済>の2項対立で考えるのではなく、<協同的社会関係>の重要性を指摘するのは、もはや常識と言って良いと思います。
ところが、この<協同的社会関係>をいかに作り上げていくのかが、最も難しいところなのです。なぜなら、市場や行政と異なって、何か・誰かに任せれば良い、とはいかないからです。つまり、<協同的社会関係>とはそれを志向する人間同士の<協同的人間関係>そのものなのです。
そして前回の最後に、いわゆる反体制派、左翼・リベラル・人権派と言われる人たち内部ですら(だからこそ?)些細な(大きな?)違いを巡って敵対が起こることを指摘したように、この人間関係ほど難しいものはないわけです。
僕の見解では、見田の提起する二つの人間関係的原理とそれを結合させる方法を巡る社会モデルは、この<協同的人間関係>を作っていく上で、重要な実践的意義を持っています。
例えば、基礎的単位としての「交響するコミューン」は大きなものではなく、無数の小さなものでなければならないこと、かつてのコミューン像とは違い、異質な個人の自由を基礎にした友愛や連帯でなければならず、自由に選択し脱退し移行し創出するものであることetc.、また社会全体が交響圏とルール圏とその中間圏に区分されるとともに、それぞれの内部において交響関係とルール関係が様々な優位関係のもとに同居していることetc.。
2007年、前年に高校の同級生たちと再会した僕は、ワインの話なら面白いだろうということで、還暦記念同窓会で講演させてもらいました。そしてワインの話の後、「我らこれからどう生きていくか?」をテーマに前述の見田の「交響するコミューン・の・自由な連合体」という言葉を紹介し、「単純化していえば、<生きがいを求め、楽しく生きるための仲間づく り>をしながら<よりましな世界をつくるための関係づくり>をしていこうということでしょう。」とまとめました。
どちらも大切で、どちらにウェイトをおくかは、各人の自由でいいのです。
(15)見田宗介(3)
2018年に出版された『現代社会はどこに向かうか』については、リアルタイムでの感想を栽培クラブ会員相手に語った「日記」(2018.8.31)の引用から始めましょう。
「今回の本は、理論の枠組み自体は前二著を継承しながら、最新のデータを使って、より明確に現在と未来の姿を描き出すとともに、前著では抑えられていた実践的展望について著者の考えを強く押し出しています。おそらく著者は、「遺言」のつもりでこの本を出版したのでしょう。
帯には「巨大な視野、最新のデータ、透徹した理論に、明快に語る<永続する幸福の世界>と書かれています。行き場のないような現状に苦悩している人たちから見れば、「なんと能天気な!」と呆れられる可能性が大です。
しかし僕は、盆明けに新聞広告で本の出版を知り、アマゾンで注文して翌日入手し、1日で読み切って、心がスッキリしました。現状の社会や政治や運動が混迷しているからこそ、また自分自身の時間がどれだけ残されているか不明だからこそ、今この時の自分の行動が大切なのです。
著書の末尾の言葉を引用しておきましょう。
「この<肯定する革命>は、破壊する革命ではなく創造する革命であり、未来の社会のために現在の生を犠牲にする革命ではなく、解放のための実践がそれ自体現在の生における解放として楽しまれる革命であるから、自分の周囲に小さいすてきな集団やネットワークが胚芽としてつくられたその時すでに、それだけの領域において、革命は実現しているのである。
一華開いて世界起こる。その一つの花が開くときにも、一つの細胞がまず充実すると、他の一つずつの細胞が触発されて充実する、という、充実の連鎖反応によって、全体が大きく開くのだという。
今ここに一つの花が開く時、すでに世界は新しい。」
グレイスのワインづくり・ブドウづくりの仕事も、栽培クラブの活動も、まさにそのひとつの花ではありませんか!
会社の仲間や栽培クラブの仲間と一緒に、楽しく花を開かせていけば良いのです。」(「日記」からの引用ここまで)
実はその前段に、次のような状況説明があります。
「一方で、客観的に言えば<老い>や<死>を自分自身の問題として受け止めなければならない年代に差し掛かりながらも、他方でまだ一仕事・ふた仕事取り掛かる意欲と可能性をも実感する中で、この間、改めて考えてきています。こんな状況で、一つの本の出版を知りました。」
この連載記事の1回目を斎藤幸平の『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』を読んで新たな事業への決断のきっかけにしたということから始め、最終回を見田宗介にした意味がお分かりと思います。
斎藤幸平や見田宗介について、高く評価しない人がいることも知っています。でも、そんなことはどうでもいいのです。
僕は彼らにつき動かされて、「一つの花を開かせる」決意をしました。
この十数年、「自分の周囲に小さいすてきな集団やネットワークが胚芽としてつくられた」確信があります。これを守り、育て、新たな出会いによってさらに発展させること。
これまでは、中央葡萄酒(のワイン醸造技術)という後ろ盾があっての活動でした。それのない、新たな明野ヴィンヤードの挑戦は、成功が保証されているものではありません。でも、楽しくやればいいのです。
そして、その精神と活動が事業として若い人に引き継がれていくことを願うのみです。
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