僕の経歴の概括と記録&総括すべきこと
- redvine
- 2010年9月4日
- 読了時間: 8分
更新日:2021年10月8日
1946年 大阪市の東部下町(東成区今里)に自営業者(父が木造船用ボルト・ナット、船釘販売業を一人で営んでいた)の、4人きょうだいの3番目の一人息子として生まれる。当時の大都市中流家庭のごく普通の子供生活を送る。 1959年 地元の小学校を卒業し、親の方針で大阪中心部のマンモス市立中学校(東中学)に越境入学する。多様な地域・階層出身の、膨大な同世代からなる競争社会のど真ん中に投入され、違和感・疎外感・競争心・劣等感・優越感・自己嫌悪などの入り交じるなかで、自己意識=社会意識に目覚める。 1962年 府立大手前高校に入学。3歳上で同じ中学—高校の経路をたどった姉からの情報もあり、入学前から社会科学研究部に入ることを決めていた。最初のホームルーム自己紹介でそのことを言ったのがきっかけで牧野義隆と出会い、終世の親友となる。 自治会やクラブ活動にも取り組んだが、眼目は他者への働きかけというより、自己表現=自己形成=自己変革のため。もっぱら数人の友人と徒党を組んで、文化・芸術・思想・政治の領域に背伸びして食らいつく生活であった。 1965年 京都大学文学部に入学。最初から普通に卒業—就職する気はまったくなく、すぐに学生運動に参加。高校時代から60年安保ブント(共産主義者同盟)の流れを引く関西ブントとつきあっていて、京大の主流派でもあったブント=社学同に入るつもりだったが、入学後革共同=マル学同・中核派の存在を知り、それを選択した。 このあたりまでは、政治活動をしたいとか、実際に社会を変革する革命運動に参加するというよりは、この社会(資本主義社会)の中での自己の生き方として思想者=革命者を選択するという意識であった。 一方、時代は全世界的に激動期に入っていた。アメリカのベトナム侵略戦争の拡大、ベトナム人民の解放戦争と全世界的な反戦闘争の高揚、高度に発達した資本主義=管理社会体制への異議申し立ての拡大。このなかで、僕が参加した党派=運動は、それまでの、思想と運動に基づく組織建設(社共にかわる労働者党の建設)を主とした方針から、学生運動を物質力として、現実の政治の流れを変え、それをテコに労働者を主体とする革命を現実のものにしていくという方針に転換する。 実際、67年10.8佐藤首相のベトナム訪問阻止羽田闘争(この闘争で、僕の影響下で大手前—京大—中核派の道を2年遅れで選択した山崎博昭君が死亡した)—68年1月原子力空母エンタープライズ号寄港阻止佐世保闘争(僕が指揮者となって、他の一人とともに米軍基地に突入した)—2〜3月王子野戦病院反対・三里塚空港建設阻止闘争などの現地実力闘争やそれの影響を受けつつ爆発した68年日大・東大闘争—全国大学闘争=全共闘運動の嵐は、自分たちの「命がけ」の闘いが人民の心を動かし、既成党派を打ち破って、日本の政治をも動かす力をもっていることを(少なくともその可能性を)明らかにした。 しかしこの過程は、国家権力と運動—党派の死力を尽くした対決だけでなく、党派どうしの間での対立・競争の激化を生み出し、ついには党派間の戦争が一切に優先されるという傾向=路線にまで発展していった。 僕はこの時代を72年までは学生運動の指導部として、73年半ば迄を反軍戦線(反戦自衛官支援)担当として、76年半ばまでを党派戦争を担う非公然・非合法組織の一員として過ごし、その結果として、その後約5年間の獄中生活を送ることになる。 この過程の僕の意識は、感性的には、党派至上主義—党派間戦争路線を嫌悪・反発しながら、しかし運動=組織をやめることは許されない、やる以上は先頭に立つ、というものだった。「許されない」というのは、現実に組織の指導部やメンバーが許してくれないということであるとともに、自分の影響下で運動に参加し、自分の指導=責任のもとで、国家権力や他党派との闘いに決起して死んでいった同志達に対して許されない、という倫理観が大きかった。 70年代後半〜80年代初頭、中断を挟んで合計5年間にわたる獄中生活での読書と思索は、運動と組織にかんする僕の意識を大きく変えた。 運動の出発点、60年代前半には、自分は学者・思想家の道を選ばないけれど、自分の選んだ運動=党派の根底を支える思想・理論は、世界的にみても最も先進的なものだという自信をもっていた。しかし、60年代後半から70年代にかけて、世界の<知の前線>は地殻変動を起こしていたことに気づかされる。スターリン主義のみならず、もはやマルクス「主義」自体がすべてを包括する真理の体系としては否定されざるを得ないのだ。 80年に一時出獄したとき、僕は獄中での思索の結果を論文=意見書の形にまとめて組織に提出した。それは、当時の党派の路線の変更を求め、理論問題においても根本的な再検討を提案するものだった。当然のことながら、それは即座に却下され、逆に撤回—自己批判を要求されることになる。 このときから僕は、人生論的には党派に帰属し続けるが、理論・思想問題は独自に考え続けるというダブル・スタンダードなスタンスをとるようになった。しかし、当時僕が所属していた関西地方の指導部は、僕のようなキャリアをもつ人間が組織に所属する限り、ラインの中で指導的立場につく以外のあり方を認めない。したがって、現実に大阪の地区=労働者組織の責任者として、自分がもはや本心では支持していない方針を実現していく役割を強いられることとなり、その矛盾・葛藤の激化から、ついに90年初頭、組織から逃亡するかたちで離脱せざるをえなかった。 このときは、普通に市民生活を送ることが許されるとも、可能であるとも思わなかったので、滋賀県の山奥にある障害者の共同体(大萩茗荷村)に素性を隠して身を寄せ、2ヶ月ほど生活をともにした。そこで一生奉仕活動をして暮らすのも悪くないという気になっていた。 しかし、僕が組織を逃亡する過程の事情をつかんだ中央=東京の指導部が、 かすかに設けていたチャンネルを通して、「意見が違ってきたのなら、それを無理に隠す必要はない。そのうえで、大きくは組織に献身する気持ちがあるのなら、復帰してできる範囲のことをすればよい。」として、東京に来ることを勧めてきた。 この誘いにのって、僕は90年3月東京に出ていき、93年11月までそこで活動することになる。 当初から、『破防法研究』という外郭雑誌の編集部員になることを志願したのだが、すぐには認められず、自民党本部放火ゲリラ事件の弁護団事務局の一員になって、弁護士と協力して、弁論を作成する仕事を頼まれた。これは、事件自体はたしかに党派の非公然部隊が起こしたのだが、犯人として逮捕・起訴された人物はまったくの人違い=無実だという裁判で、犯人の目撃証言や筆跡鑑定などの検察側証拠を全面的に論駁して、完全無罪を勝ち取った。非常に面白くやりがいのある仕事で、弁護側鑑定人=証人の人選や鑑定書・弁論作成の共同作業には大学時代の人脈(心理学者の浜田寿美男、書家の石川九楊ら)もフルに活用できた。 その実績を認められ、また組織としても、幅の広い読者層をもつ雑誌を作り、文化人層との共同戦線を広げていくためには、僕のようなスタンスの人間も必要だという判断があったとみえて、東京に出て1年半後、『破防法研究』廃刊→新雑誌創刊と文化人工作(文芸評論家・尾崎秀樹氏と映画評論家・白井佳夫氏を世話人とする国家機密法反対懇談会の事務局)を担う部門に配属されることとなった。 このあとのことは、『牧野義隆遺稿抄』の編集後記に書いておいた。新雑誌『シリウス』は創刊号を印刷し、毎日新聞1面に広告を出すところまでいったのだが、執筆者の中に三里塚闘争の話し合い路線の推進者(河宮信郎氏—60年安保ブントメンバーで学者。科学・技術関係の連載コラムの執筆者として、僕が推薦し、依頼した。)が含まれているという理由で、政治局から発売中止・廃刊の命令が下された。そして、しばらくの時間を経て、もはや組織の中で僕がになうべきことはなくなったという了解のもと、非常に珍しい「円満退社」が認められたのである。 94年1月、友人の勧めで、政治的喧噪の地から遠い青森に行き、社会の中で生き直す道を探るようになってからのことは、彫刻家鈴木正治さんを偲ぶ文書に書いた。 この地で、「よい食品づくりの会」の活動を通して、かつての同志である酒井(旧姓・藤木)正弘さんと再会し、いまの仕事につくことになってからの経過は、高校の還暦同窓会での講演原稿で詳述している。 このような僕の経歴をまとめることが社会的意味を持つだろうか? 自己史に即して、60年代の激動の時代をたどることは、一つの個性を通してあの時代(ジャーナリステッィクにいえば「1968年」)の意味を、その最先端にいた者の視座から明らかにするという意義はそれなりにあるだろう。 ただし、本質的にいえば、「もう一つの例」を付け加えるだけであり、事実としても、総括の内実としても、画期的な内容は含まれていないと言わざるを得ない。 これに対して、70年代の党派間戦争の時代に関しては、いまだ関係者の証言そのものが限られており、そのまっただ中にいた僕が証言することの資料的な意味は大きい。 ただし、問題が微妙であり、僕自身としては、かつての組織や関係者との関係には腹をくくっているものの、親族や会社への影響を考えると、具体的に言及することにはためらいを覚えざるをえない。 率直に言って、まだまだ時間が必要なのではないか。 これに対して、運動—組織の問題において事実や総括にあまり深入りせず、「過激派人生」→青森時代→山梨時代をノンフィクション風に、あるいは自伝風に描いたら、その素材の独自さだけで、面白い読物になる可能性は高い。 しかし、僕自身がそんなふうに語ってよいのか? このような問いを繰り返しながら、それを考える場として、このサイトは立ち上がります。 2010年9月4日
Comments