肺ガン手術と書籍版『きみが死んだあとで』発刊にあたって
- redvine
- 2021年8月11日
- 読了時間: 13分
更新日:2月26日
1.7月5日、肺ガンの手術をしました。
6月4日、4月に受けた国民健康保険の健康診断結果を伝えられた際、レントゲン検査で左肺に影があり、精密検査を受けるよう指示されました。
かかりつけの医師に相談したところ、直ちにCT検査及び山梨県立中央病院の専門医の診察を手配していただき、その診察とPET検査&MRI検査の結果、6月17日に左肺上葉部完全切除の方針を決定し、7月5日に手術を受けました。
結果は、左肺上部の3.5cm大の肺腺ガン腫瘍を摘出、ステージⅠb と判断され、リンパ腺及び他臓器への転移はなく、手術は成功したとのことでした。これから5年間の経過観察を受けるわけですが、統計的にいえば完治率(=5年生存率)は9割の見込みとのことです。
20歳以降喫煙せず、家系的にもガンとは縁遠かったので、青天の霹靂ではありましたが、結果的には早期発見により、最適の治療を最短の時間で受けられ、強運な出来事だったと総括しています。
7月10日の退院以降約1ヶ月経ち、術後の経過も順調で、生活と労働はほぼ元どおりに回復するに至りました。
2.『きみが死んだあとで』の劇場上映及び書籍版出版と重なって
この6月から7月にかけての時期は、一方で「人生の本番3.0」をかけた事業である明野ヴィンヤードの開園・植樹が順調に進み、約3,500本のブドウ樹の活着と成長を迎え、他方で僕自身が登場人物の一人である、昨年完成した代島治彦監督の長編ドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』の全国的な劇場公開が進む中で、書籍版の『きみが死んだあとで』(晶文社刊)が発売されるという動きと重なりました。
そこで、7月4日入院─5日手術というスケジュールが決まったとき、それまでに、自分のこれまでの人生の経過と新事業の意味と展望について、facebookに「これだけは言っておきたい」ことについて投稿することにしました。
以下の文章は、6月29日、7月2日、3日の3回にわたって投稿されたものを再録したものです。
今回、まとめて個人サイトで公開することにします
3.運動・組織を続けることとやめること
書籍『きみが死んだあとで』(代島治彦著 晶文社刊)が発売開始されました。
この本では、映画で採用されなかった各人の発言のおおよそが収録されています。僕の場合は、10・8のあと90年代初頭までなぜ革共同に留まり、しかし結局はなぜやめたのかということがかなり詳しく、そしてその後ワイン用ブドウ栽培に取り組んでからのことが簡潔に述べられています。
関心のある方には本を読んでもらいたいのですが(これまで個人サイトで書いてきたことと重なります)、一つ補足しておかなければならないことがあります。
従来主題が<10・8山﨑>だということもあって、「山﨑博昭(そして辻敏明、正田三郎)の死への責任感を最大の根拠に1993年まで中核派で活動した」と書いたわけですが、これは正確な表現ではありません。
山﨑の死に対して感じた僕の責任感は、高校から大学にかけての自己形成、特に京大文学部への進学とマルクス主義学生同盟中核派への加盟に影響を与えたことに対してであって、10・8羽田闘争への参加はもちろん、機動隊との衝突の最前線への参加そのものも、本人の主体的意志決定でした(このこと自体、正確には映画での黒瀬君の証言で初めて知ったのですが)。従って、彼の「死」自体に僕が責任を負っているとは考えませんでした。
それに対して、辻敏明と正田三郎の命を奪ったのはいうまでもなく革マル派の用意周到に準備された目的意識的なテロルですが、その現場に彼らが赴いたのは、自由意志ではなく組織の指導部の決定だからであり、その方針に対して僕は責任を負っています。その意味で、二人の「死」自体に責任があります。
こういう「責任」はどう取ればいいのか、あるいは「責任を果たす」とはどういうことなのか。それをずっと考えてきました。
人は生きてさえいれば、良くも悪くも考え方を変えることができますし、生き方も変えられます。しかし、死は一切の可能性を奪います。
従って、思想に基づく組織活動の一環として、自分の責任で他者の死をもたらしたものにとっては、その「思想」と「組織」を「考え方が変化した」とか「活動が厳しい、闘争が怖い」とか「思うような役割を与えられない」とか「他にやりたいことができた」とかいった「個人的利害感情」によって放棄し、別の生き方を自由に選ぶことは許されない、と僕は考えました。その意味では、革命の思想及び革共同という組織と命運を一体化するしかないと決意したのです。
また、暴力や軍事といった問題について、個人的心情としては嫌悪していたとしても、それが所与の関係の中では不可避であるのなら、他人に委ねず我が身で引き受ける以外にないと決心し、対革マル戦をも担いました。
そしてこの経験自体が、結果として自分の人生をますます革共同に縛り付け、組織といわば心中するしかないところに追い込んでいったのです。
しかし、時間の経過の中で、自分の考え方と革共同のあり方の間に根本的な矛盾が生じてきます。
一方で僕自身は、「僕の思想(家)遍歴」で書いたように、「人間解放」や「世界・社会の変革」という初発の問題意識は継続しつつも、古典的なマルクス・レーニン主義の教条や革共同の綱領・路線から逸脱する考え方をするようになり、他方で革共同の路線・組織・活動・思想自体が停滞・硬直・独善化していくことによって、相互の矛盾が激化していくことになります。
本来あるべき姿からいえば、組織に外在的に関わるのではなく、自らの活動をとおして組織と運動の在り方自体を変革していくべきでしょう。しかし、70〜80年代を通して非公然・非合法体制の構築という掛け声の下での革共同の軍令主義化が進み、もはや党内討論ないし党内闘争を通じた変革を期待できないことは明白でした。
80年代後半、僕はこの矛盾を緩和するためには、ピラミッド型の官僚組織の中での(中間)指導部の立場から離れるほかないと判断しました。
一つのあり方は、専従活動家をやめ、党員としての義務は守りつつ、生計の道は自分自身で立てる一労働者メンバーとしての道です。もう一つのあり方が、専従は続けるが、指揮系列である基本組織のラインから外れ、スタッフ的仕事に専念することです。
しかし、それまで所属していた関西の組織では、どちらの要望も認められませんでした。そのため、一旦は脱落という経過を経て、90年から東京に出て、いくつかのスタッフ的な仕事に携わったのです。
そのうち、小西事務所に詰めて、自衛隊沖縄派遣に反対する新聞広告への賛同人を集める仕事(大江健三郎氏宅などを訪問した)と、自民党本部炎上ゲリラ戦闘の藤井裁判弁護団事務局での弁論作成の仕事は、いわば一時的な頼まれ仕事で、『破防法研究』終刊─『シリウス』創刊が当初から自分で志願した仕事です。
従って、この仕事が順調に推移していたら、少なくともさらに何年かは革共同に所属して活動していたでしょう。
しかし結局は、相容れなくなったと思います。なぜなら革共同の歪みが、単に革命党としての輝きを失ったのみならず、解放の主体たる労働者民衆の阻害要因になるまでに進行してしまったからです。
対革マル戦第一主義の強制による大衆運動や統一戦線への介入・分断や数少ない大学拠点での無党派・他党派活動家への抑圧から始まり、三里塚基軸論(農民の闘いへの支援から始まった闘争を革命運動の中心軸と位置付けること)によって、全ての運動に三里塚への合流を至上命題的に求める一方、三里塚闘争内部での妥協派・異論派を敵として殲滅の対象とするまでに至ったのです。
僕の離党の原因となった河宮信郎中京大教授の筆者起用を理由にする『シリウス』廃刊命令にしても、氏が「話し合い解決」を主導した隅谷三喜男氏を座長とする隅谷調査団の反対同盟(熱田派)側推薦メンバーであることを知らなかったのは、確かに僕の大きなミスです。
しかしもう一人の反対同盟推薦メンバーが宇沢弘文氏である(このことは当時も知っていた)ことを想起するとき、宇沢氏や河宮氏を「敵」と規定する思想や運動が日本の民衆を獲得することなどあり得ないことを痛感せざるを得ません。(宇沢氏については「遍歴」で「(理論)経済学者として成功した人が経済学を疑う視点を含めて回顧する書物や人物評伝を読むのが好き」として『経済と人間の旅』(日本経済新聞出版社)及び佐々木実著『資本主義と闘った男─宇沢弘文と経済学の世界』(講談社)を筆頭に挙げました。「コモン」が改めて注目がされる今、「社会的共通資本」の理論と彼の人生の歩みについては、さらに脚光を浴びるべきでしょう。)
僕は今でも自分はどんな人生も自由に選べるとは思っていません。
革共同がもう少しまともな組織であり続けていれば、その内部で活動を継続すべきだったと考えています。それが社会的インパクトを持たなくとも、辻や正田に対する責任だと思うからです。
ただ、職業革命家を中心に構成される「前衛党」的官僚組織にあっては、指導部・幹部を選抜・統制・交代させる機能がうまく働かないため、能力不足であったり人格的欠陥をもつ幹部がやめずに活動を続けること自体が、組織に災厄をもたらすのですね。
そう考えると、僕のような経歴・立場の人間が革共同にいつまで留まるべきで、いつやめるべきだったのか、簡単に正解は見つかりません。言えるのは、「もっと早くやめたほうが良かった」とは今も思っていない、ということです。
やめてからのことは次の機会にしましょう。
4.ブドウ栽培と「栽培クラブ」
映画『きみが死んだあとで』では僕が運動・組織から離れた後のことに関する証言はなく、ただ最後の出演者経歴紹介の字幕で「1993年まで革共同中核派で活動。1996年にワイン醸造会社へ就職。ブドウ栽培がその後のライフワークとなった。」と表示されます。
また書籍版では僕の証言の表題が「49歳ではじめて没頭したんです、いまの仕事に。」とされ、本文は「『頑張ったらブドウ栽培は一人前になるんじゃないか』。やめてからは、ただそれだけに集中してやってきたってことですね。」と締めくくられています。
この編集に異議を唱えるわけではありません。しかし僕自身はこれまで「ライフワーク」をブドウ栽培だと表現したことはありません。また革共同を離れた後も、仕事としてはブドウ栽培に全力で取り組みましたが、僕の人生を山崎、辻・正田たちの運命や革命の事業と無関係になったと考えたことは一瞬たりともありません。
それで、書籍版の僕の証言の末尾に、「栽培クラブ」の活動をライフワークとして展開したことと、昨年新しく会社をつくったことに関する近況報告を追加させてもらいました。そして、その文章を「だからこの事業は共同事業なのですが、ぼく自身としてはこれまでの人生の総決算として取り組むつもりです。つまり、人類史と資本主義が巨大な転換点を迎える中で、新しい社会や生活をどうつくっていくかを考え、行動する場所としてつくり、次の世代の人につなげていきたいのです。」と結びました。
「栽培クラブ」正しくは「グレイス栽培クラブ」の位置づけに関しては、個人サイトの「ライフワークとしての栽培クラブ」<http://www7.plala.or.jp/.../raifuwakutoshiteno_zai...>を参照してください。また活動のドキュメントしては、山本博編『ブドウと生きる─グレイス栽培クラブの天・地・人』(人間と歴史社、2015年刊)を読んでいただければありがたいです。
中央葡萄酒株式会社における僕の活動は、大きくは入社以来農場長として鳥居平農園及び明野農場=現三澤農場の開園─建設を担った時期と、その後退社まで参与及び顧問としてグレイス栽培クラブの活動に注力した時期に分かれます。およそ十数年ずつです。
そして後者の活動は、会員とともに勝沼の鳥居平農園と三澤農場の一部でブドウを栽培する栽培活動そのものと、クラブの活動が会社の事業の一環でありながら会員自身の自主的な自己実現のための活動でもあるようにクラブを運営する活動の二つの側面から成り立っていました。
この両面性は、2007年の鳥居平農園でのグレイス栽培クラブ発足から、2010年の明野栽培クラブ発足後3年までくらいは、もっぱら僕自身がいかに会員の自発性を引き出し、共同で運営する態勢を作り上げるかに努力することで統一されていました。
しかし、会社が三澤農場でのブドウ栽培─ワインづくりの目標を「世界一のワインをめざす」におき、農場を聖域化して、余分な要因を切り捨てる方針に転換することによって、会員にもその目的に一体化することを要求するようになります。
それ以降の僕の活動は、会社のその転換を受け入れた上で、明野の会員の自主性ができる限り尊重されるように運営していくことと、鳥居平でもう一度新会員を募集して新たな活性化をつくりだしていくことに力を注いだのです。
ところがそれも、会社が経営の世代交代を伴いつつ、鳥居平にも明野と同じ原則を適用することにより、現実化が困難になることによって、退社・独立を決断しました。
もちろん、明野ヴィンヤード 設立によって、こうした二面性の統一に関する問題の解決が保障されたわけではありません。
僕には、まず明野ヴィンヤード の建設・栽培活動そのものを主たる労働力として担うとともに、田島さんや北野さんと共同して経営計画を確立する任務があります。それは経営者としての責任です。
しかしその過程でも、クラブ&サポーター会員を共同の主体として事業をつくりあげていきたいのです。
またなにより、その中で、この事業を引き継いで担っていってくれるメンバーをつくっていかなければなりません。
そのためには、少なくともあと4〜5年は第一線で頑張ることが必要です。ガンの完治とは通常術後5年の生存をいうようです。今回の手術は、僕にとって次の5年の活動の保証書を発行してもらうことになるでしょう。
5.言っておきたいこと
6月23日に「これからの過ごし方」として入院までの課題を整理した際、最後に「その上で、書籍版の内容とも関連して、僕のこれまでの人生選択の経過や明野ヴィンヤードの展望などについて、言っておきたいことを3日までに何回か投稿することを考えています。」と書きました。
そして29日に代島さんの記事をシェアしたコメントとして「運動・組織を続けることとやめること」を書き、昨7月2日「ブドウ栽培と『栽培クラブ』」を投稿しました。これで「僕のこれまでの人生選択の経過」についてはだいたい言いました。
「明野ヴィンヤードの展望」についても今言える範囲のことは書いたつもりですが、少し付け加えます。
僕が栽培クラブの実践や明野ヴィンヤード の計画について、「これからの社会のあり方」や「コモンの民主的共同管理」などと結びつけて語るとき、客観的に言えば、それがちっぽけな実践に対する「主観的意味付与」に過ぎないことは自覚しています。
しかしまた、本当に小さなものではあれ、そこに確かな手応えと可能性があることを確信もしているのです。
一つには、15年にわたる栽培クラブの実践によって、見田宗介のいう「自分の周囲に小さいすてきな集団やネットワークが胚芽としてつくられた」確信があるからです。
もちろん類例のなかったものを作り出したなどと特権的に主張しているのではありません。むしろ、様々な人々によって無数に作り出されている・作り出されるべきものの一つだからこそ、意味があると思うのです。
もう一つには、「コモンの民主的共同管理」という大きな社会的課題に立ち向かう際の最も有効な切り口の一つが<過疎地や農村部の土地を都市住民と結合して共同使用していく>ことにあると思うからです。
実際、限界集落の問題に見られるように、地方─過疎地の地域共同体の危機は深刻であり、そこでは土地の私有制がもはや意味を持たない状況も生み出されています。一方都市住民の生活・環境危機も深刻であり、それを農村部との結合によって突破していこうとする動きは、行政や企業のサイドからも生み出されてきています。それらを敵視することが大事なのではなく、民衆の行動や社会運動がより有効な実践をつくり出していくことが必要なのです。
明野ヴィンヤード自体は2haの土地(借地)でしかありません。それでも、まだまだ有効な使い方が工夫できます。さらに、明野─北杜市に広がる周辺には、他のヴィンヤード、(観光)農園、キャンプ地、工房や芸術施設など、すでに繋がりあるところがいっぱいありますし、無限の可能性があります。なにより素晴らしい人たちがいっぱいいます。
<ブドウ栽培─ワインづくりの楽しさ>と<多様な個性的で楽しい会員とのつながり>をキーコンセプトにしながら、明野ヴィンヤードがそうした繋がりの一つの核になっていけたら、と希望しているのです。
(以上、2021年8月11日upload)
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