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大切な人たちとの訣れと新たな挑戦

  • redvine
  • 2020年5月21日
  • 読了時間: 31分

更新日:2021年11月3日


はじめに

 新型コロナウイルス感染防止のため自宅籠りを余儀無くされる日々が続く。この時間を利用して、2012年12月に公開したこの個人サイトの最後の更新となるかもしれない記事をアップすることにした。  なぜ「最後の」更新かと言えば、開設の目的であった「山梨にすみ、ワイン用ブドウ栽培に取り組んから得た友人・知人には、それ以前の僕の生き方・経歴について理解してもらいたい、逆に昔(から)の友人や知人には、現在の僕の仕事や生き方、考えについて理解してもらいたい」という望みが、開設以来の時間の経過とその間における『ブドウと生きる─グレイス栽培クラブの天・地・人』(山本博編、人間と歴史社刊)及び『かつて10・8羽田闘争があった』(10・8山崎博昭プロジェクト編、合同出版刊)の出版によって、ほぼ果たされたと判断するからだ。  その上で敢えて最後に「更新」する理由の一つは、この2年の間に相次いで永遠の訣れをした、自分の人生にとって大切な人たちへのレクイエムを奏でたいという思いだ。その人たちとは、大学と運動の大先輩・今泉正臣氏(2018年5月25日没)、母親の赤松エツ子(同年9月9日没)、革共同の指導者だった野島三郎こと木下尊晤氏(2019年2月28日没)、中学以来の親友・神尾賢二(2020年2月12日没)の四人だ。  そしてもう一つの理由は、この5月末で24年余り世話になった中央葡萄酒株式会社を退職する運びになったことと、さらにそのあと個人として「もう一仕事」に挑戦する決意をしたことである。僕の人生にとって最後のひと仕事になるであろう事業について、その成否はともかく、スタートの時点での心構えなりと記しておきたいのである。

今泉正臣さんのこと

 今泉正臣さん──僕らは「今ちゃん」と呼んでいた──は一昨年の5月25日に鹿児島県鹿屋市の自宅で亡くなったが、その最後に僕はたまたま立ち会うことができた。膵臓癌の進行によって全ての積極的治療を諦め、自宅で「仙人への道」を選ぶようになったとの報せを聞き、今ちゃんを囲む後輩グループの世話役である「松ちゃん」こと嶋田松夫氏と共に見舞いに駆けつけたからだ。

 25日の午後自宅に到着した時は、会話はできなかったものの、僕らが来たことを理解しているようで、夕刻、「また明日くるね」と言って美代子夫人が手配してくれたホテルに向かった。しかし翌朝、美代子さんから「昨晩8時20分に亡くなりました」とのメールが到着。自宅に急行して遺体とお別れし、通夜や葬儀のことについて相談したあと、翌日からの予定があったので、帰途についた。

 その後、ご遺族が納骨のため京都に来られるのに合わせて、7月13日に加藤登紀子の兄、加藤幹雄氏(元一橋大学ブントの指導者)が経営するロシアレストラン「キエフ」で運動関係の仲間が主催する「今泉さんを偲ぶ会」が行われ、僕もそこに出席した。  今泉さんは1934年大阪生まれで53年に京大医学部入学だから、僕にとっては干支でちょうど一回り上の大先輩にあたる。京大や医学連の学生運動の早くからの中心メンバーの一人であり、50年代後半における学生運動・革命運動の左転換=日本共産党京大細胞解散から共産主義者同盟(ブント)結成に至る動きの中心にいた。60年安保闘争後は革命的共産主義者同盟全国委員会に移行し、その関西における指導部の一員であったが、同時に医学部卒業後は助手に採用されて大学に残った優秀な医者としての貌も持っていた。  僕が入学と同時にサークルを通じて革共同の下部組織、マルクス主義学生同盟・中核派に接近した際、もともと(関西)ブントシンパである僕をオルグする担当者になったのは、今泉さんと同じ経過をたどって革共同関西地方委員会の最高幹部(書記長)になっていた小川登(組織名・竹中明夫)さんであった。彼も革命家であると同時に経済学部の大学院生(労働経済学を専攻)という学者(の卵)としての貌も持っていて、大学に来る都合のある日に党派オルグ活動もこなしたわけだ。  小川さんの話は関西随一の理論家と言われるだけの魅力に富んでいたが、同時に旧知の関西ブントの指導部をこき下ろすための悪口などアクの強い面もあった。そんな話を僕が今泉さんに問い質すと、苦笑しながら、「公平に言うとね」と正してくれるのだった。このように彼は最初から僕の前に、折り目正しく親切な大人(たいじん)の風格を持った人物として登場した。  67年10・8羽田闘争を契機とする「激動の7ヶ月」は、革共同における中央(東京)と関西の指導部間の内部対立、より正確に言うと、中央による関西指導部の追放劇と同時並行した。関西地方委員会の議長だった池内史郎さん(組織名・浜野哲夫)、小川さん、今泉さんたちはすべて追放されるのだが、曲がりなりにも中央批判を文書で公表し、組織的な分派闘争を試みたのは小川さんだけだった。だから学生戦線の中で闘いの先頭に立ち続けていた僕は、この過程の今泉さんの言動をほとんど知らない。人間的に親しかった彼らが、国家権力との激闘の最中に戦線を離れることをただ残念に感じるだけであった。  「戦線を離れる」と言ったが、三人の離れ方はそれぞれ全く違っていた。池内さんは文字通り沈黙の中で静かに政治の場を離れ、小川さんは夫人を中心とする教育労働者を軸とした分派闘争→独自の労働運動を陰で指導しつつ、自分は学者(後年桃山大学教授)への道を着実に進んだ。いっぽう今泉さんは医者という職業によって自分の生活と社会的立場を確保しつつ、無党派活動家として大衆運動の世話役的な活動(京都反戦青年委員会事務局員)を続けるとともに、京大ブント出身の高瀬泰司さんが主導する京大西部講堂を舞台とした前衛的文化活動のパトロン役を演じたりした。  三者の身の処し方の違いを思うに、池内さんは関西の指導部の中でただ一人、「職業革命家」として運動に全てを賭けた者として、中央指導部との関係でその立場を貫けなくなった時、潔く(あるいは万事窮して)全てを断念する生き方を選んだのであろう。

 小川さんの選択には、戦後の時代を背景にした貧困な生い立ちの中から「生き抜く」ということと「革命を目指す」ということを同じ地平で考えた生活者としてのしたたかなリアリズムを感じる。

 それに対して今泉さんの選択には、恵まれた家系から医者という社会的ライセンスを得た者が、その「特権」をあくまで社会のため民衆のため使うという、倫理的な生き方を感じた。それはのちに唐牛健太郎から「今ちゃんは良質民青だから」と冷やかされた資質と言えるのではないか。  今泉さんと再度親しく付き合うようになったのは、1980年僕が数年間にわたる拘留生活から出獄して以降である。

 別の文章で書いたように、僕は獄中での読書と思索によって、思想的には完全に綱領的異論派になったものの、人生論的・倫理的決断としては革共同の一員として生死する生き方を選んだ。組織のラインの中で党の方針を実現するために活動するという日常を送りつつ、そこには収まりきれない自分の精神を保ち解放するために、独自の思索を重ねるとともに、今泉さんや池内さんたちとの交遊を復活させたのである。この交わりは、1993年の革共同離脱後さらに深くなり、彼ら長老を囲んで毎年一回実施される元活動家たちの親睦旅行会(「例の会」と称した)は、毎年心待ちになる行事となった。  この時間の経過の中で今泉さんは医者の仕事に専念するようになり、それも大学病院→阪神間の町医者を経て、1981年からは国立ハンセン病患者施設の職員として、香川県高松市の大島青松園、東京都東村山市の多摩全生園、鹿児島県鹿屋市の星塚敬愛園と各地に勤務、92年からは星塚敬愛園の園長を勤め、患者の要望で定年後も2年間特例として続任したあと2002年に退官した。

 その間に鹿屋を永住の地と定めて、海辺に面した土地に元宮大工の棟梁に頼んだ自宅を建てて住み、退官後も亡くなる直前まで地域医療の現場にたち続けたのである。ことに星塚敬愛園の患者さんたちや職員さんたちから慕われた証は、彼の死後11月1日に開かれた「今泉正臣名誉園長を偲ぶ会」の模様や園内に建立された立派な顕彰碑に示されているだろう。  今泉さんは安保ブント同窓会の関西における最長老であり、島成郎氏や唐牛健太郎氏を囲んで集まる「六月会」を取り仕切るなど、かつての仲間の世話焼きを買って出たが、自らの政治的遍歴や総括を語ることは少なかった。近年彼が喜寿や傘寿の節目を迎えるたびに、僕はまとまった回想・記録を書くか話すかすることを持ちかけたのだが、結局それが実現することはなかった。  一方、彼が後半生を捧げたハンセン病患者との関係では、2017年10月に開かれた「第29回ハンセン病コ・メディカル学術集会」で「ハンセン病療養所と私─半生を振り返って─」と題する特別講演を行なっている。

 そこでは「ハンセン病の裁判があった時に、私は全国ハンセン病療養所の所長連盟の会長をしていたんです。その時に厚生省に呼ばれまして、『いかに厚生省が今まで頑張ってきたかということを喋ってくれ』ということを言われたんです。そして私自身は、結局それをやったわけです。そしたら全体の裁判が終わった後で、(入所者の方達から)『今泉は、何も自分らの味方をしなかったじゃないか』と言われました。やっぱり、こういう国家公務員ですか、一つの組織に属していると、上の方から言われると聞いてしまうということがあるんです。そういう点で、やはりその時、自分がいかにダメであるかということをいやというほど感じたのです。」と率直な反省の弁を述べている。

 僕自身二度ほど星塚敬愛園を訪ね、今泉さんに園内を案内してもらって、彼がいかに患者に信頼され、療養所の未来について真剣に考えていたかを知るだけに、この痛苦な総括は胸を打つ。  より個人的な関係で言えば、せっかちな性格や健啖家で夜遅くまで飲んでも早起きして動き回るところなど、似ているところが多く、僕はずっと12年後の自分の姿を今泉さんに見ていた。だから、周囲の人から「もう歳なんだから」と健康を心配される度に、「今ちゃんを見てよ。まだまだ大丈夫だよ」と嘯いていたのだが、彼の死に直面して、「本当に元気に動けるのは、あと10年と覚悟しよう」と思うに至った。

 何れにせよ、今泉さんを失って、僕にとって「甘え」を含んで接することのできる友人はいなくなったと切実に思う。  なお、この稿を書き終えた後、今泉美代子さんから、4月11日に小川登さんが亡くなったという連絡をいただいた。小川さんとは、彼が第一次安倍政権発足時の2006年に「9条改憲阻止の会」の結成を呼びかけたときに、大阪中之島公園での集会とデモの現場で久しぶりに会ったのが最後だった。近年は病気がちと聞いていて、先述の「今泉さんを偲ぶ会」にも欠席された。これで、67~68年の分裂劇の当事者は、今も革共同の議長であり続けているらしい清水丈夫氏を除けば誰もいなくなった。合掌。 母、赤松エツ子のこと

 「この数年に失った大切な人」の中で、僕にとって自分が最も愛し、また愛されたのが母であることは言うまでもない。  ただ、他の三人と異なり、本人の短い評伝を書いたり、自分との関係を他の人に説明する必要を感じない。  そこで、母の死の直後に栽培クラブのメンバーに「日記」の中で報告した文章だけを再録しておく。 (9月9日記)  今朝永眠しました。  一切苦しむことなく、眠ったままの旅立ちでした。  最後の晩もずっと付き添うことができました。  家族、親族にとっては自慢のゴッドマザーであり、本人も幸せな人生だったと述懐していました。  葬儀は家族だけで行いますので、弔電、供花、香典の類は全てご遠慮させていただきます。 (9月12日記)  10日の通夜、11日の告別式を僕が喪主になって行い、本日夜、帰宅しました。  親族のみの葬儀として行ったので、どうしてもと参加された姉の友人数名を入れて38人で、ささやかながら心の籠った集いでした。  写真左は葬儀の祭壇、中央は母が気に入って、施設(特養)の居室に飾ってあった栽培クラブ10周年記念の手ぬぐい(鳥居平の福永由美子さんデザインで、最後に棺の中に収めました)、右は自宅に置かれた遺影(今年5月撮影)・位牌と骨壺です。  百寿祝いの時は、孫が100本の赤いバラの花束を贈ってくれましたが、今回は棺の中に101本の白いバラの花で母の顔の周りを埋め尽くしました。  母は聡明で、明るく、正義感の強い、気丈で、几帳面な人でした。  時代のせいで、旧制高等女学校を卒業してしばらくして父と結婚してからは、子育てと家事、家業のサポートに専念する生涯を送りましたが、現代に生まれていたら、きっと何かの仕事につき、有名でなくとも、社会と他人に貢献する何事かを成し遂げていたろうと思います。  僕が大学時代以来、運動に没入していた時は大変心配をかけましたが、決して「やめてくれ」とは言わず、ただ「そういう運動のあり方では、成功しないと思うよ」と忠告してくれる人でもありました。  運動をやめて現在に至る過程では、その道筋を支えてくれた鈴木正治さんと酒井さんを恩人と呼び、何より洋子さんに感謝していました。  最後に会話できたのは、8月29日に二人で見舞った時でしたが、別れの言葉は「また来てね。二人、仲良くね」でした。

木下尊晤(たかあき)氏のこと

 木下氏は革命的共産主義者同盟全国委員会の創設以来の幹部で(組織名は野島三郎)、一時期はその最高指導者だった人物である。僕らは「野島さん」もしくは、本名の尊晤や「孫悟空」というコラム筆名にちなんで「そんさん」と呼んでいた。近年は政治的に失脚し、病気療養していた時期が長かったものの、最後まで組織を離れることなく一生を終えた。そうした人物を追悼する文章を書くのは、野島さんが僕が活動していた時の直接の指導者であったことと、個人的な縁から彼の葬儀に立ち会ったからである。  革共同が機関紙『前進』に発表した追悼文では、彼の革命運動との関わりを「野島同志は、1956年、法政大学に入学、本多延嘉同志との出会いから革命的共産主義者同盟に結集し、1959年の革共同第2次分裂(60年安保闘争の爆発を目前にした革共同全国委員会結成)に際して本多同志と共に闘った。」という記述から始めている。

 しかし彼の運動との関わりは、生まれ故郷である奈良における少年時代を抜きにして語れない。木下家は奈良市内で大きな薬局を営んでいたが、彼の兄・そんき氏(のちに「うたごえ運動」の指導者として有名になる音楽家)は、今泉正臣さんの項で触れた池内史郎さんやのちに映画監督となる岩佐寿弥さんなどの友人たちと演劇・映画・音楽などの青年文化運動を活発に展開していた。

 日本共産党の影響下にあったこの青年たちは、時代の中でスターリン主義批判の影響をもろに受ける。連日のごとく自宅で展開される兄たちの論議に聞き耳を立てていたのが、野島さんの政治的出発点なのである。  そうした野島さんとの縁もあって池内さんが革共同に参加し、60年安保闘争後に小川さん・今泉さんたちブント出身者が合流することによって、関西における革共同=中核派が確立する。ところが、「激動の7ヶ月」の過程で革共同中央指導部は関西の指導部を「右翼日和見主義」と断罪して追放するが、その立て直しのために送り込まれたのが野島さんであった。この時から、関西の中核派組織はいわば「野島党」として作り上げられるのである。  野島さんは当時の革共同の中で、本多書記長を中心とする本流の一員であり、「芸術本質論序説」と題する論文や文芸評論を書く文化通として知られるとともに、国鉄労働者や東京の東部地区委員会を組織化した実績を持つ「オルグ=組織の達人」という評価を受けていた。組織の指導においても、学生運動出身者の多くがそうであるような、政治方針をアジって行動に駆り立てるというよりも、一人一人の人間的資質を掴んで導く特質を持っていた。  野島さんの指導のもと、数年を経て関西地方委員会は全国で最強の地方組織へと再建されていくが、その中で僕は、学生戦線における京大支部のキャップ(69年1月教養部バリケード封鎖以降の京大闘争─全共闘運動の指導)→関西全体のキャップ(70~71年安保・沖縄決戦への学生の組織化)から反軍戦線担当(反戦自衛官小西誠裁判支援闘争)を経て対革マル戦を担う非合法・非公然組織の指揮者という部署を担っていくことになる。

 この過程の僕は、常に内心において党の路線や方針に対する疑問や批判を抱えつつ、行動において先頭に立つという役割を演じるが、野島さんはそうした僕の微妙なあり方を分かってくれる存在としてあった。つまり僕にとっては、「野島さんのような人が指導部にいる限り、現にある組織の様々な限界や歪みも将来は解決されていく可能性を持っている」と捉えることができたのである。  僕が非公然組織に所属していた1975年3月、本多書記長が革マルに虐殺される。実質的な後継指導者となった野島さんは、全組織を復讐戦に駆り立てるとともに、対革マル戦争の激烈化を通じて内乱・内戦ー蜂起を目指すという「先制的内戦戦略」なるものを打ち出した。党首虐殺という断崖絶壁から組織を立て直し、決起させるという意図・必然性があったとは言え、革マルとの対決を普遍戦略的に第一義的な課題とし、軍事路線によって革命運動を推進する方針は、明らかに革共同を現在に至る衰退と崩壊に導く過ちであったと言わなければならないだろう。  僕は76年7月から中断を挟んで5年強の獄中生活を送ったあと組織活動に復帰するが、それからしばらくして、野島さんは女性問題を理由に失脚する(公的には、それ自体は事実でもある病気療養と説明された)。したがって、90年初頭に関西の組織を離れて東京に出た時も、93年末に革共同そのものから離脱したときも、彼との接触は一切なかった。  野島さんとの関係が復活するのは、やはり池内さんや岩佐さんとの絡みからだ。2000年10月21日に池内さんが亡くなり、葬儀が大阪市住之江区の池内家近くの自治会集会所で開かれたとき、山梨から駆けつけた僕は岩佐さんから緊急な頼まれごとをした。

 「池さんの死を自分が直接に野島に伝えたいから、中核派の事務所に行って、連絡を取って欲しい」というのだ。聞けば、このところ池内さんが失意の野島さんの相談相手になっていて、彼の死を時間が経ってから風の便りに聞くようなことになれば、打ちのめされるに違いない。だから自分の口から伝えたい、ということらしい。

 東京=中央との関係では円満に離脱したとは言え、関西の組織とは縁を絶っていた僕にとっては緊張せざるを得ない任務であり、非公然生活をしている野島さんにすぐに連絡がつくわけのないことは明白だった。

 しかし、岩佐さんの切実な願いを断ることなどできない。意を決して前進社関西支社に飛び込んだわけだが、幸い、話の通る橋本利昭氏が責任者としていたので、伝言を伝える約束は取り付けて引き上げた。  そのあと、野島さんから僕に直接連絡があり、入院療養している千葉県下の病院に行ったのは、2005年の秋だった。

 彼は池内さん逝去を連絡した先年の労に感謝を表明したあと、「長年の療養に区切りがついた。組織の中で限定的な任務に復帰するか、離党して友人の世話になり、若い頃の文学的試作をまとめる作業をするか迷っている」と明かした。僕の答えが「組織を離れて、総括の作業を行い発表することこそ、あなたに課せられた歴史的な責務ですよ」というものだったのは言うまでもない。

 しかし、それからしばらく経った同年11月、新聞紙上に「中核派最高幹部、電磁的公正証書原本不実記載・同供用容疑で逮捕」という記事が載った。要するに、野島さんは組織に復帰することを選択し、公然面に浮上したので、公安警察が「住民票記載の場所に実際は住んでいない」と難癖をつけて逮捕した、というわけだ。  それ以来は、組織に残っているものの、様々な傾向の外部の人間とも討論している、との情報を幾人かの人から聞くだけだった。

 さらに、2013年5月4日に岩佐さんが急逝し、7月7日に日本青年館で「岩佐さん ちょっとお別れの会」と題する追悼会が盛大に催された際にも、参加者が集まりだす前の時刻に来て、記帳だけして帰るなど、もどかしい関係が続いた。  それが葬儀に立ち会う巡り合わせになったのは、昨年2月27日に組織離脱組の水谷保孝氏(68年1月エンプラ佐世保闘争で米軍基地に一緒に突入した仲間)から「末期ガンで都内の病院に入院している」との連絡を受け、翌日、知人とともに見舞いに行くことにしたからだ。そうしたら当日朝、亡くなって遺体は葬儀場に運ばれたと知らされ、そこに直行した。ご遺族が通夜も葬儀もせず、荼毘に付す前に棺に花を入れるだけと決定されたのだ。  斎場には、野島さんの夫人と娘さん、兄そんき氏の夫人と子息などの親族、革共同の現役組と離脱組がそれぞれ数人ずつ、全体で20人弱が集まった。全体がまとまる関係ではなく、グループを超えた会話もない状態だったが、僕は関西時代に夫人と面識があり、またご親族とも池内さんや岩佐さんなどをめぐる共通の話題もあったので、話をできたのは幸いだった。  最盛期には命をかけた数万を超えるメンバーを率いた人の最後としては寂しいという他ない。しかし、革命運動に全てをかけた末に、その敗北と衰退を招いた責任者の一人として、本人と家族の覚悟を決めた訣れだったのだろう。

神尾賢二のこと

 これまでの三人とは違い、現存する人としては最も親しかった神尾賢二の最後にそばで付き合えなかったのは、彼が今年2月12日、異国スペインのバルセロナで亡くなったからだ。バルセロナは彼が1970年にパリに留学したとき知り合って結婚したエウラリア夫人の故郷であり、人生の最後の時間を夫人と共に過ごすことを決意して、2012年から永住の地として暮らしていたのだ。  神尾は1946年9月に大阪市で大阪府警察の幹部警官であった父の下、四人きょうだいの末っ子として生まれた。私立の追手門学院小学部から堺市立浜寺中学を経て、父の転勤(近畿管区警察学校教授)に伴って2年生の時に大阪市立東中学に転校し、そこで僕と同クラスになる。  彼はひょうきんな性格を持ち、クラス担任の教師のモノマネが得意で、すぐに人気者になるが、僕や水口孝、逢坂勉などと特に仲の良いグループの一員になった。

 知的関心は高いが、学校の推奨する優等生的あり方を嫌う気質が共通していたのであろう。美術部に属して絵画・芸術に強い興味を持ち、僕らのグループが大阪市だかの学級新聞コンクールで金賞を受賞する新聞を作るにあたっては、イラストなどを担当した。  一緒に大阪府立大手前高校に進んでからは、僕が社会科学研究部に入って牧野義隆や加藤敦史と四六時中行動を共にするようになったのに対して、神尾は演劇部(部室は社研の隣)に入部してそこに打ち込んだ。それでもクラスの選択ではいつも同クラスになるようにしたし、放課後はしょっちゅうつるんで映画館やジャズ喫茶、古本屋巡りなどで行動を共にした。己の自我意識に向き合いながら、他者との切磋琢磨によってお互いに自己を形成していくという、10代の後半でなければ絶対に味わえない経験であった。  65年の大学進学にあたっては東京志向が明確で早稲田大学第一政経学部に進み、僕や加藤は京大、牧野は静岡大とバラバラになった。

 早大は学費値上げと学生会館管理運営権を巡る第一次早大闘争の真只中であり、神尾はすぐにその中に飛び込む。政経の自治会は社青同解放派が主流で、中核派は少数ながら統一戦線を組んで、全学共闘会議(議長は解放派の大口昭彦)の一翼を担っていた。

 中核派を選択したのは、僕との関係もあったが、当時の早大支部のリーダー(一政学友会副委員長、全学共闘会議行動隊長)である彦吉常宏氏の魅力も大きかったと思われる。  神尾は大学での活動においても街頭の活動においても持ち前の戦闘的な行動力を発揮した。しかし、早大では革マル派のテロ支配が進み、68年1月佐世保闘争に向かう際に飯田橋駅で予防検束的に逮捕され、出獄したあとは、大学での活動が不可能になる。一度は、地区─労働戦線に移行して活動することを模索したようだが、展望を見いだせなかったのであろう。運動と組織を離脱して、日本を離れることを決意した。  70年1月、横浜港からバイカル号に乗って、ウラジオストックからシベリア鉄道経由でパリへ。アリアンス・フランセーズでフランス語を学びながら、バイトで日本人観光客を案内するといった生活の中で、エウラリアさんと知り合い、恋に落ちたわけだ。彼女はフランコ体制下のスペインに嫌気がさして、パリに学びに来たカタロニア人だった。

 二人は72年にバルセロナに移り、そこで結婚。神尾は父親が警察官だった関係で武道を齧った経験があり、体格・腕力も強かったので、折からのジャパンブーム・カラテブームに乗って、合気道の教師などをして暮らした。  そうこうするうちに日本で暮らすことに決めて、73年に帰国する。

 最初、彦吉氏ら早大反戦連合グループの元活動家たちが拠点にしていた築地の市場で働いたりした後、おそらく岩佐さんの伝手を頼って、映画製作の世界に入る。映画・演劇の世界は神尾の元々の志向でもあり、パリでも一時学んでいたらしい。

 当時は、『圧殺の森』『現任報告書』で活動家に鮮烈な印象を残した小川紳介が「小川プロ」を設立し、三里塚に住み込んでドキュメンタリー映画を撮り続けているのが、一部の若者に強烈な吸引力を持っていた時代でもあった。

 ただし、映画人としてのキャリアはパッとしなかったようだ。この頃のことを本人は、「長くフリーランサーだった僕は、東海映画社というテレビ番組制作会社と契約して、夏樹静子の『女検事霞夕子』のゴーストライターやヤクザのドキュメンタリーなどテレビ界の裏街道をしょぼ歩いており、ほとほと嫌気がさしていました。」と後日述懐している。  大きな転機となったのは、84年頃、エイズをテーマにしたサイエンスドキュメントの企画を電通に持ち込んだことがきっかけで電通プロックスのプロデューサー神領勝男氏と懇意になったことだ。電通の契約社員となり、映像事業局長勝田祥三氏に気に入られ、語学力を生かして外国取材が必要な番組(朝日放送制作の『世界名画の旅』など)を数多く引き受けつつ、自ら企画した作品も製作した。

 中でも、86年から88年にかけて取り組んだ『故国なきマラソンランナー』(88年10月テレビ東京で放映)は、ベルリンオリンピックで「日本人」として金メダルを獲得したソン・ギジョン(孫基禎)氏を88ソウルオリンピックと絡めて描いた作品で、彼自身が自分の代表作と述べている。  さらに、89年に電通と朝日新聞が組んで衛星テレビ局「衛星チャンネル」(後に「朝日ニュースター」に改名)を開局するにあたり、「安くて新しくて面白い」番組として「8mmドキュメント フリーゾーン90」(後にフリーゾーン2000に改名)の企画を提案。採用されると、ディレクター、レポーターさらにはアンカー(司会者)をつとめて、数々の作品を世に送り出した。

 これは当時急速に出回り始めた小型ビデオカメラで素人が映像を撮り、自分で編集して作成した作品を募集して、作者本人にナレーターをさせて放送するという番組であり、日本におけるビデオジャーナリズムの先駆けとなった。ピエール・バルー、今井通子、坂田明、立松和平、本橋成一など各界のタレントに撮影と編集の技術を教えてユニークな作品を作らせたり、全国各地に素人のビデオレポーターを養成したり、朝日新聞から送り込まれたビデオジャーナリスト候補を鍛えたりした(その中の一人が2012年にシリアで殺害された山本美香さんだ)。

 93年に革共同を離脱した僕の再生を助けるために紹介してくれた、青森の斎藤葵和子さんや鈴木正治さんもこうした全国にまたがる活動から生み出された繋がりだったのだ。  このころが神尾の人生で一番華やかな時期だったろう。電通の看板を背負って、予算も豊富に使えるし、有名人との付き合いも増える。英語、フランス語、スペイン語がペラペラで、スペイン大使館の職員として働く妻のコネで外交官ナンバーのスポーツカー(BMWコンバーチブル)を乗り回し、話題が豊富で面白く、男振りが良いのだからさぞモテたと思われる。  いつ頃、何が契機になったのかはっきりと聞いていないが、神尾はそうした「華やかな」テレビの世界に見切りをつけ、ジャーナリスト養成学校や日本語学校の講師をして生計の糧を得ながら、本の翻訳に多くの時間を割くようになる。

 早大政経の同学年生で「緑風出版」を創業した高須次郎氏との縁がそれを可能にしたのは言うまでもないが、人文社会科学関係の翻訳など労多くして、対価は少ない。『ウオーター・ウオーズ─水の私物化、汚染、そして利益をめぐって』(ヴァンダナ・シヴァ著)、『気候パニック』(イヴ・ルノワール著)、『石油の隠された貌』(エリック・ノーラン著)、『灰の中からーサダム・フセインのイラク』(アンドリュー・コバーンら著)、『大統領チャベス』(クリスティーナ・マルカーノら著)、『海に消えた星の王子さま』(ジャック・ブラデルら著)、『金持ちが地球を破壊する』(エルヴァ・ケンプ著)、『資本主義からの脱却』(エルヴァ・ケンプ著)、『鉄の壁』第二版上下巻(アヴィ・ジュライム著)、『フクシマの荒廃ーフランス人特派員が見た原発棄民たち』(アルノー・ヴァレラン著)と並ぶ著書名を見るとき、現代の世界と人類の危機を見つめ、その変革の触媒となるべきものを日本の人々に提供しようという彼の生真面目な良心がうかがえるのではないだろうか。   一方、個人生活においても転機が来る。エウラリア夫人がスペイン本国の公務員雇用方針変更によって、日本に留まり続ける事を許されなくなり、マドリードへ、さらにモロッコへと転勤を余儀なくされるようになるのだ。

 彼女は早くから老後は故国で暮らす事を希望していたが、こうした状況の変化によって、神尾は自分も今後の人生を彼女と共に暮らすことを決意し、2009年モロッコへ移住した。直後から日本大使館に出入りし、重宝されて現地における「日本文化の顔」となり、国立モハメド5世大学の客員教授として学生に日本語や日本文化を教え、大人気を博した。  そして12年、夫人の定年退職に伴って、永住の地として定めたバルセロナに移住したのである。当初は、日本文化センターにもなるような発信拠点を自分で作る目論見を持っていたようだが、住んでみるとカタロニア文化を学ぶことの方により多くの興味を抱いたようで、カタラン(カタロニア語)を本格的に学び、カタロニア独立運動にコミットしていった。もちろん、日本語学校教師としての仕事はここでも継続し、多くの学生に慕われた。  数年前まで神尾は自分の健康に自信を持っていて、カタロニア独立運動に関する翻訳書及び自分が執筆する日本昔話のカタロニア語版絵本の出版を準備する一方、自己史をまとめる意向を私的に漏らしていたのだが、病魔が静かに近寄ってきた。

 まずは18年頃からパーキンソン病罹患が判明して、長期にわたる闘病を覚悟していたところに、19年2月に肺に腫瘍が発見されたのだ。それ自体は初期で、手術すれば完治すると告げられたのだが、結局パーキンソンとの併合により体調が悪化し、秋から病床に伏せるようになり、今年2月12日永眠するに至った。  夫人の意向により、形式的な葬儀は行わず、急遽集まった親族や友人、日本語学校の生徒など50人ほどが安置した棺の中と彼と最後の対面をし、火葬ののち、遺灰をバルセロナの北西部、聖地モンセラット修道院の麓の森の中にある別荘の庭に埋葬し、その上にサクランボの樹を植えた。

 日本からは、唯一残ったきょうだいである次姉の恒子さんが見舞いに行き、看取りに間に合った。娘の真奈さんが彼の死を知らせたface bookには、世界各地の友人やモロッコとバルセロナでの生徒たちの追悼の言葉が今も溢れている。   映画やテレビ、出版の仕事などでは、神尾がやろうとしてやりきれなかったことも多く、必ずしも栄光の人生とは言い切れない。しかし、多くの人に愛され、自分の人生の最後を納得して終えただろうと思う。  僕にとっては、14歳で出会って以来60年にわたる親密な付き合いであり、1993年に急逝した牧野義隆と並んで、終生の親友と呼べる友人だった。

 特に、革共同を離脱して何の当てもなく第二の人生を模索した過程では、文字通り、神尾に助けられたと言って過言ではない。青森で人生を生き直す手がかりを掴み、山梨で現在の生活を確立したことを本当に喜んでくれた。  最後に会ったのは、彼が一時帰国した一昨年の7月で、京都で高校の友人たちとの歓迎会をしたあと、我が家に2泊していった。その際、栽培クラブの人たちや僕の友人たちに神尾を引き合わせる懇親会を開催し、そこで彼の半生を語ってもらったのはせめてもの思い出となった。  神尾の死は、そしてこの2年間における4人との訣れは、自分の人生の終末をも意識せざるを得ない大きな出来事である。だがしかし、僕は今、あと5年・10年をかけて「もう一仕事」に挑戦するという決意を固めている。  それには、4人とは違って、僕にとって身近とは言えないもう一人の人物の死が絡んでいる。  それは昨年12月のアフガンにおける中村哲さんの襲撃死だった。彼は僕と全く同年齢であり、かつての我々のような大言壮語で世界の変革を語るが実際にはなんら社会を変革できなかった生き方の対極にある存在として、常に畏敬の念を持って見ていた。  今回の事件とその後の報道に接して、僕が一番衝撃を受けたのは、彼が「あと20年は続ける」と気負うことなく語っていたことだ。実際、事件が無ければ、おそらくそうしただろう。

 彼の実践が示した一番重要なことは、その人間にとって自然な流れの中で、一番大切だと思ったこと、他の人に必要とされることに最後まで全力を挙げる、ということに他ならない。  この事件に触発されて、僕は身体が元気である限り、いわゆる「引退生活」などあり得ないと覚悟を決め、親族・友人・知人に出す今年の年賀状に「もう一仕事、挑戦します」と記したのである。  なお、中村さんと今泉さんが信頼の絆で結ばれていたことを後日知るに至った。もともとハンセン病の治療を最初の使命としてアフガンに赴いた中村さんにとって、九州におけるハンセン病患者施設のリーダーだった今泉さんは最も信頼できる相談相手だったのだ。

 そして、病気の治療よりも井戸掘りや用水路建設に打ち込んでからも、日本に戻る度に、鹿屋を訪れ、話し合っていたそうだ。

中央葡萄酒からの退職

 このたび、5月20日付けをもって会社を退職することにした。  当日、全社員に配布した文章を再録する。 退職のご挨拶  社員の皆さん。私は本日付けで中央葡萄酒株式会社を退職することになりました。長い間、皆さんのお世話になったことを感謝し、コロナ禍により全体朝礼が開かれないことに鑑み、書面でご挨拶をさせていただきます。  1996年4月に49歳で入社し、最初から農場長という職責に付けていただき、それまで全く縁のなかったワイン用ブドウ栽培に取り組んだわけですが、本当に楽しくやりがいのある仕事でした。何よりも、山梨の美しい自然に囲まれた畑で働き、良いブドウを作るために努力することは、人間的労働の本質を体感させてくれ、自然と人間の本源的関係に気づかせてくれました。働くこと自体が楽しくて、その生産物であるワインが世の中の人々を楽しく元気づけるのですから、これほどやりがいのあることはありません。  それだけではありません。他でもない1996年に三澤社長が率いる中央葡萄酒に入社したという偶然の事実が、日本のワインづくりの歴史における巨大な転換に立ち会わせてくれ、その中でなにがしかの役割を果たすという、奇蹟のような体験を味合わせてくれたからです。

 入社と同時に鳥居平農園の建設に取り組み、鳥居平や菱山の甲州栽培農家の組織化を始め、2002年からは三澤農場建設を担うという仕事の歩みは、三澤社長が主導して、「畑から始まるワインづくり」の王道を進み、ワインの品質を画期的水準に引き上げ、甲州ワインを先頭に世界に進出するという日本ワインの歴史そのものでした。  さらに、2007年に三澤彩奈栽培醸造部長が帰国・入社して、三澤農場のワインづくりをさらなる高みに引き上げる先頭に立ってからは、その現場における実践を仲野さん、潮上さん、小島さんら後進の方達に託し、私はグレイス栽培クラブの活動に力を注ぐことにしました。

 幸いにして、13年間で500人を超える方々が入会し、現在も200人近い会員がグレイスワインのコアな支持者として、また貴重な栽培ボランティアとして貢献してくれるようになったこと、さらに会の活動が会員の皆さん自身の人生に豊かな意味をもたらすようになったことは大いなる喜びです。  私は、学生時代以来30年にわたって、社会変革を目指す運動=組織に没頭した上で、その破産を痛感して離脱した過去をもっています。その経験から、「自分の人生を組織に没入させる」生き方を否定し、「将来の理想のために現在を犠牲にする」考え方を拒否し、いま現在を「楽しく生きる」ことと「意味のある仕事をし、成果を上げる」ことの両立を追求する生き方をしようと固く決意しました。  そのため、中央葡萄酒に入社し経営者や会社のあり方が本当に素晴らしいと確信しつつも、私は頑ななまでにその姿勢を貫こうとしたのです。その結果、25年にわたる会社員生活の中で、自分を優先させる傾向を拭えず、会社や社員の皆さんに多くのご迷惑をおかけしただろうことを深くお詫びします。  この度、7月に74歳を迎える直前に退社する運びになったわけですが、私自身は幸い、体力・気力の衰えを感じていません。そこで今後は、栽培クラブ出身でブドウ栽培農家に転身しようとする二つの家族を応援して、私自身が居住している明野の地で、共同して農園を開設することにしました。これからは、人生最後の「もう一仕事」に全力を投入するつもりです。  最後に、いわくつきの身を承知で雇用していただいて以来、三澤茂計社長から受けた数々のご恩・ご厚情に心からの感謝を捧げます。  また、三澤彩奈部長がリードされる今後の中央葡萄酒のさらなる発展を祈念しています。  そして、社員の皆さんのご健康とご多幸をお祈りします。

明野ヴィンヤード建設に向けた挑戦

 新たな挑戦としての「もう一仕事」とは、僕がこの13年間ライフワークとして活動してきたグレイス栽培クラブの会員からブドウ農家に転身する二つの家族と一緒に、新たなブドウ農園を開設することである。

 農園の場所は、僕が今住んでいるところであり、2002年の開園以来関わってきた中央葡萄酒の三澤農場が存在する山梨県北杜市明野町にある。自宅や三澤農場から1kmほど山側に登っていった浅尾原という地区で、北に八ヶ岳・南に富士山を直接に望み、西に開ける南アルプス連峰に向かって傾斜する標高827〜808mに位置し、2ヘクタールの広さをもつ。  ここに欧州系のワイン専用品種と甲州種のブドウを植え、当面は委託醸造でワインにしながら、将来、自分たち自身でワインづくりまで進もうと計画している。  また、この農場を自前の拠点として、これまで築き上げてきた栽培クラブのメンバーとのコミュニティを、未知な人々にも呼びかけつつ、さらに発展させていくことを目指している。     日本のトップワイナリーとしての地位を確立し、世界に進出しつつある中央葡萄酒から独立するのは、ブドウ─ワインの品質向上、高級ワインの生産を至上命題とする戦略・方針を充分に理解し評価しつつも、それとは違うあり方を追求したいと考えるからだ。

 ブドウ─ワインを作る自分たち自身の楽しさ、そこで作るワインがごく普通の庶民の日常の食卓と生活を豊かにすること、その事業が地域の人たちに開かれ、共同で作り出す価値、そういうものを尊重したいのだ。  この事業は、もちろんこと、まもなく74歳になる僕自身の人生で完結しうるものではない。僕にできるのは、その基礎を作り上げ、次の世代の人たちにバトンを渡すことだ。

 そこに、革命を目指した第一の人生、職業人・会社員として生きながら悔いないあり方を追求した第二の人生の上に立って、これからの第三の人生を「余生」ではなく「人生の本番3.0」として生きる僕の覚悟が存在する。そうだから、第一と第二の人生を繋いだこの個人サイトの歴史的使命がここに終わったことを宣言するのである。 (2020年5月21日)

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