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小、中学時代の作文と読書遍歴について(2010.9.23)

  • redvine
  • 2010年9月23日
  • 読了時間: 9分

 子供時代(小学校〜中学校)の文章として、実家に保存されていた小学校卒業文集掲載の「キャンプ」、個人文集所載の作文「中学生になって」、さらに中学の読書感想文コンクール作品集掲載の二つの文章を収録しておきます。

小学生から中学生への二つの文章


キャンプ(1959.3)

 僕は7月30日〜8月1日に宇治三室戸へキャンプに行った。

 初めて自分でたいたご飯のおいしさ、食後のひとときたき火をかこんで魚鳥木申すかや三好先生の教えてくださったドンブリバチの歌をうたった思い出、どれもこれも楽しい思い出になることばかりだ。

 何べんも何べんもはだかになって打たれた滝のこと。

 このキャンプで覚えた自治の精神と苦しく又楽しかったことを思い出し、中学校生活へ進もう。

中学生になって(1959.5.12)

 四月八日、今日からいよいよ中学生活が始まるのだ。僕は希望にあふれて家を出た。

 きちんとすじのついたズボン、ホコリ一つない学生服、白線一本の帽子をほこらしげにかぶり、電車に乗った。「東中学とはどんな所だろうかなぁ」などと考えているうちに、「天満〜天満〜」車掌さんの声にはっと気がついた。

 学校につくと組分けを見るのだ。「僕はどの組だろうか」「私は何組かな」みんな血まなこになって自分の名をさがしている。あった、一年十二組。これが僕の組である。先生はすごく背の高い先生。これが山本先生だった。

 いよいよ中学生になったのだ。

 希望のある中学生活が始まったのだ。

 不安な生活に入った。

 僕の心で希望と不安がうずまく。

 いつまでも希望を持ち、不安は捨てて、楽しい毎日をおくろう。

 それでこそ真の中学生活の出発である。

「越境入学」という転機

 卒業文集のほうは、子供らしい素直な文章だと思う。このキャンプのことは今も鮮明に思い出すことができる。

 中学生になって初めて書いた文章のほうは、内心の「不安」がつよく読み取れる。

 通常であれば、中学は徒歩圏にある本庄中学という所に進むはずだった。しかし、住民票を一時他人の家に移すという手段を使って、大阪市内の中心部にあるマンモス市立中学、東中学に越境入学したのだ。

 大阪市では、この数年後には越境入学=悪、差別的犯罪という考え、規制が強まるのだが、当時はまだ寛容であった。僕自身としても、 三歳上の姉が既にそういうコースをたどっていたこともあり、その選択を自分から望んだわけではないが、疑問にも思わなかった。

 しかし、近所の遊び仲間・小学校の友人達と完全に切り離されたこと、電車で都心に行き、1学年15クラス制のまったく見知らない膨大な同世代のなかに投げ出されたこと、その生徒のかなりの部分が広い地域から通学する越境組で、中には親が高学歴で標準語を話すなどこれまで周囲にいないタイプも含まれていたこと、学校生活が高校受験—競争優先に塗り固められたものであったこと、これらは僕にとって不安と緊張をもたらし、<他者と自己>の意識及び<社会と自己>の意識を強烈に芽生えさせた。これが僕の人生にとって、今につながる自覚的な転機となったことは疑いない。

中学時代の読書感想文二つ

『にあんちゃん』を読んで(1960.1 中学校1年生)

 この本は極貧の生活と耐えがたい心の痛みにもよくたえて生きていく人間の姿を、なんのかざりもなく淡々と綴った、純真で素朴な一少女の日記である。

 この少女、安本末子は九州の貧しい炭坑に育った。この日記は、父の死後四十九日目から書き始められている。炭坑で働く兄を支えに、たがいによりそって、気づかい合い生きていくさまをきれいに澄んだ少女の瞳で正確に記録されている。

 このように、親もなく家もないような少女が素直に生き、戦争を憎んだり、貧乏をうらんだり、時には人間の運命を論じたりしているのには驚き感激した。

 しかし、ただこの兄妹の生活に同情したり感激したりしているだけではいけないと思う。憲法25条にもあるように「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」や『児童憲章』の無力さを批判し、このような生活があってよいものかという問題を投げつけている。

 感激・同情は誰でも出来る。だが、このような生活をなくすることが根本問題ではないか。

 そしていつか新聞に「この日記の主題になっている“二兄ちゃん”高一は貧乏でも勉強はよく出来るし、行いもよく働き者である。貧しい中でも立派に雄々しく生きる。それに、子供が英雄にあこがれるような気持ちが働いて『にあんちゃん』に感激する要素となっている」というようなことがでていたが、僕も同感である。もし、兄妹達があまり強くなく貧乏をはねかえす意気が足りなかったら、人々は同情もするが。それより先に、けいべつ感が来ると思う。

 ただ日常の出来事だけをさらっと書き流したこの日記が、何度も何度も校正をした道徳の書よりも、その文章の素直さゆえに、読む人の心を深く深く打ち、涙をさそうのである。そしてこの荒れた世の中を、どのように生きればよいのかを読者に教えてくれるのだ。

『高瀬舟』を読んで(1961.3 中学校2年生)

 京都の罪人は、遠島を申し渡されると、高瀬舟で大阪に運ばれた。普通の罪人はとても悲しむのだが、この小説の主人公喜助は、悲しむどころか、それこそ今にも口笛を吹いて、鼻歌を歌いだしそうだった。

 役人の庄兵衛が不思議に思ってたずねると、喜助はこれまで食べるにも事欠くほどだったのが、国のお金で飯を食べさしてもらえるし、遠島を言い渡された時もらった二百文が生まれて初めて使わずに持っている金なのでとてもうれしいのだ、と答える。また、罪をたずねると、やはり貧しかった弟が、病を苦にして自殺をはかったが死にきれなかった。

 弟は「自分はもうどうせだめだから、苦しまないように殺してくれ。」と言う。喜助は迷ったが、弟の顔を見て断りきれずに殺してしまった。と言うのだった。

 この物語を読んで、僕もやはり庄兵衛と同じ疑問を持った。その一つは、人間の欲望というものは限りがなく、いくらかの金を貰うと、更にそれ以上ほしがり、とどまる所を知らないのが普通である。ところがここに出てくる罪人は、たった二百文を財産として満足していることである。すっかり自分の分に安んじて、それ以上の欲望を殺している喜助の悟りは、崇高とさえ言える。しかし、このような心の背後には これまでの悲痛な人生経験が裏にあるからなのである。喜助が一度でも豊かな生活をしたことがあったなら、こう簡単には満足しなかっただろうと思う。

 もう一つの疑いは、この小説の根本にもなっている「死にかかっていて死ねず苦しんでいる人を殺すことは良いことか、悪いことか。」ということである。そのままにしておくとどうせ死ぬ弟,殺せば罪になる、しかしそれをほおっておくと弟は苦しみ抜くだろう、弟に「殺してくれ」と頼まれて、見るに忍びなく弟を殺した喜助・・・。痛いほどその気持ちは僕にはよくわかる。もし自分の前にそのような病人がいたら、どうするだろうか。

 医学的には「安楽死(ユーサネジア)」といって、ー死にかけのそれも激烈な痛み病気の場合、本人または家族の頼みで楽に死なすーという考えがあるそうだが、それと一般道徳との衝突。これは今もって解かれていない問題なのだが・・・これを庄兵衛は迷ったあげく、自分で考えることを放棄して上役の判断に任せようとした。こんな簡単にすましてよいものだろうか。このような、すぐ自分で考えずに、上の者の意見に任せる権威主義の人々が今の世でもいかに多いことか。

 このように作者森鴎外が江戸時代のたった二、三行の記録から連想して作られた、この『高瀬舟』は、短い文章ではあるが、その中に色々の問題を含んだ、現代の我々にも訴えるところの多い作品であった。


 上掲の二作品以外にも『十五少年漂流記』『トロッコ』『エミールと少年探偵団』『ジャン・クリストフ』『大きい石の顔』『坊ちゃん』などの感想文が保存されているが、これらは学校の課題図書の中から選んで提出したものである。

 どの文章も、あらすじのまとめ、重要なポイントについての感想、総括といった流れで構成され、理知的ではあるが、解説文を参考にしたような紋切り型の印象をぬぐえない。

 先に述べた「転機」のなかで、一方の面では、競争に打ち勝ち、優等生として振る舞おうという気持ちと、他方で、そうしたあり方がいやで徹底的にアウトサイダーとして振る舞おうという気持ちが複雑にからまってくる。読書感想文の場合は、前者の典型といえるだろう。


少年時代の読書遍歴

 学校の課題図書も嫌いではなかったが、本当に好きなのは、小学生時代は貸本屋から借りる劇画雑誌、冒険・探偵小説、時代小説、中学時代は本屋で立ち読みする推理小説、歴史小説のたぐいであった。

 一方家のなかの本という意味では、祖父が戦前に盲目になっていたので、普段はラジオを楽しみにしており、時に本を読んであげると大変喜んだ。それで、小学生のころから吉川英治の『宮本武蔵』や『新太平記』などの長編を分からない字や単語があると教えてもらいながら読み上げた。また、家の蔵書としてあった世界や日本の文学全集のたぐいも教養主義的に片っ端から読んでいった。

 こうした乱読の中で、一番影響があったと思うのは、カッパブックスに代表される新書判の社会派推理小説の流れである。サラリーマンを中心とする戦後日本の大衆的読者層を支配したともいえるジャンルで、松本清張に代表されるものだ。推理小説ではあるが、探偵の謎解きを主眼とするのではなく、犯罪を社会が生んだものとしてとらえ、犯人像を通して社会と人間の問題点を浮かび上がらせるものだ。

 僕が一番ひいきにしたのは高木彬光だが、当時のカッパブックスは殆ど読んだと思う。

 また、歴史小説については、当初吉川英治や山岡荘八などを読んでいたが、父親が毎週購読していた『 サンデー毎日』連載の「国盗り物語」をきっかけに司馬遼太郎にはまりこんだ。地の文で筆者の現代的関心を挟み込む独特の叙述に大きな魅力を感じたのだ。

 おもに読書を通して、また新聞などによる時事的ニュースへの関心をも通して、社会や歴史への関心がこのようにどんどん広がり、他方で、眼前に進行する受験競争→競争万能型社会への順応⇔反発を契機として<他者—自己><社会—自己>という自意識が鋭く自分に突き刺さってくる。

 中学から高校に進学する時期の僕はこんな状態であり、自分の将来—高校生活について次のように考えていた。

 受験勉強至上主義は拒否するが、アウトサイダー意識を「社会と向き合うことへの拒否」とするのはやめよう。さしあたり、高校—大学には進学しよう。そのために必要な勉強は、一応こなそう。今あえて漠然とした将来像を描くとしたら、弁護士となって社会や犯罪の問題に取り組むことではないか。

 しかし、一番切実なのは、<社会と自己>をめぐる自意識に方向性を与えることであり、そのような場=問題を共有出来る他者との出会いを求めて、大手前高校に入学したら社会科学研究部に入ろう。

 こう考えたのは、姉が学校から持ち帰る資料の中に社研部の機関紙『霧笛』があり、それが醸し出す雰囲気に惹かれたからである。

 この場合、社会科学という概念の中には、当然マルクス主義というものが中心に座っていたが、なにか具体的な内容を知っていたわけではない。マルクス主義を主題とする書籍で、僕が初めて買い、高校の入学式の日に携えていったのは、戦前の自由主義者・河合栄治郎の古色蒼然たる啓蒙書であった。

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