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映画『きみが死んだあとで』完成にあたって

  • redvine
  • 2020年11月6日
  • 読了時間: 7分

更新日:2021年10月13日


はじめに

代島治彦監督の長編ドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』が完成した。

1967年10月8日の佐藤首相南ベトナム訪問阻止羽田現地闘争に参加し、警察官との激突の中で死んだ京大生山﨑博昭君の人生の歩みを兄の山﨑建夫氏や大手前高校の同級生達らの証言で再現した上巻と、その証言者たちが彼の死後どう生きたかを語る下巻からなる、上映時間200分の長大なドキュメンタリーだ。大手前高校で山﨑君の2学年上にあたり、彼が高校でマルクスの学習や反戦闘争に取り組み、さらに京大に進んでマルクス主義学生同盟・中核派に加盟して闘うきっかけとなった僕も、上巻・下巻の両方で主要な証言者の一人として登場する。

 この映画を僕は、9月1日の関係者による初号試写会で初めて観たあと、10月4日に東京、11月3日に大阪で開催された10・8山﨑博昭プロジェクト主催の「完成披露・上映とトークの会」に参加した。そこでは、上映後登壇して挨拶をしたが、その際、代島監督からこのウェブサイトの存在を参加者に紹介する発言もあった。

 そうした経緯から、いったん「たぶん最後の更新」と銘打った「大切な人たちとの訣れと新たな挑戦」記事を掲載した後ではあるが、若干のコメントを述べておきたい。

 なお、映画は来年4月下旬に一般公開されるとのことである。限られた映画館での公開となるだろうが、多くの方に観ていただきたいと思う。

映画を観た感想

 映画として、よくできていると思う。ほとんど証言映像だけで綴られた3時間を超す長尺ものなのに、このテーマに関心のある人にとっては、映像に引き込まれて飽きさせることがない。14人の証言者がまったくシナリオなしに語った膨大な証言を全て文字起こしして、そこから各証言の断片を継ぎ合わせて一貫した物語に構成するという、想像を絶する編集努力が功を奏している。

 それぞれの証言者とその発言も、多彩な個性や生き方が反映して興味深い。その中に元東大全共闘議長・山本義隆氏や詩人・佐々木幹郎、作家・三田誠広などいわゆる「有名人」が混じっていることも一般の観客にとっては関心を引くだろう。それにしても、山崎の短い人生を彩る主要な関係者の殆どが現存していて、積極的に証言に応じているのは、50年以上前の激動の時代とその後の紆余曲折の経過を思うと、奇跡に近いと感じる。「10・8」がまだあの時代の運動の「光と陰」のうち、「光」を代表しているという事情もあるに違いない。いまだ「陰」を引きずって生きている人々にとっては、複雑な気持ちを与えるかもしれない。何れにせよ、一つの時代の貴重な歴史的記録となることは間違いない。

 また、この世代の生き方に憧れ、「自分が山崎君の友人だとしたら、その後どう生きたろうか」という問題意識から映画製作を決意したという代島監督自身が、学生服を着て、山﨑の遺影を頭上に掲げて羽田弁天橋に立つ映像から始まり、当時常に学生と行動を共にしていた写真家・北井一夫氏が撮影した10・8現場写真のベタ焼き映像に大友良英氏の音楽が重なる冒頭&終末部分も非常に面白い。専門的な鑑賞眼を備えている訳ではないが、ドキュメンタリー映画として水準以上の力作に仕上がっていると思う。

 問題は、1972年生まれの作家・田中慎弥が、安倍前首相を「本が読まれなくなった時代の総理大臣」と評して話題になった文章でいう「格差にあえぐ若い世代からすれば、学生が本を読み、人生や政治について考えていたなど、優雅なおとぎ話でしかない」という層に、この時代と山崎個人の生き様がどのように伝わるかということだろう。

 僕が証言者として登場する部分についても一言しておこう。インタビュー撮影は昨2019年2月26日に自宅でまる1日をかけて行われた。

 インタビューアーとなった代島さんとは、今は亡き年長の友人・岩佐寿弥さんが監督した映画『チベットの少年オロ』のプロデューサーとして知り合って以来の人間的な信頼、及び『三里塚のイカロス』の監督としての実績への信頼があったから、聞かれるまま、語りづらいことを含めて、過去と現在のあらゆることに正直に答えた。

 その中から、映画では、当時の運動や組織のあり方について解説・説明する部分と、僕自身が闘った68年1月佐世保闘争に関する部分、そして71年12月4日の関西大学における辻・正田虐殺事件に関して自分に突きつけられた問題に言及する部分が採用されている。この場面選択と証言内容に関する評価については、監督の判断と観た人の感想に任せるしかない。

東西の集会での発言について

 東京と大阪の集会は「上映とトークの会」と銘打たれ、映画の上映後、参加している証言者が発言するコーナーが設けられていた。本来は自己紹介や映画の感想を簡単に述べるべき場面だろうが、僕は意図的に自分の意見を述べさせてもらうことにした。映画でも説明された山﨑らの世代に対する僕の役割及びその後の生き方(1993年まで革共同=中核派の専従活動家を続けた上で、離脱した)との関係で、中核派など当時新左翼とか革命的左翼とか称された運動=組織の歴史的な総括について簡潔にでも語る義務があると考えたからだ。

 そして東京の集会では、「新左翼の総括としては、<セクト、党組織の在り方>や<国家暴力との闘い方、民衆の暴力と武装闘争のあり方>や<革命のイデオロギー、理論や理想の捉え方>などどれも重要な問題であるが、この場では<国家と資本を乗り越える社会のあり方を構想できなかったこと、現在の実践からそれを作り出していくという視点がなかったこと>を指摘したい」と述べた。この問題が、革命運動の総括としてだけでなく、今生きている一人ひとりの人間の生き方の上でも重要な問題と考えるからだ。

 そして、僕自身はそうした観点から、25年間の会社員生活での実践を受け継ぎつつ今年5月に独立し、今後は自分で作った会社を基盤に「新しい挑戦」に向かうことを述べた。

 いっぽう大阪の集会では、あえて革マル派との対決の問題に触れた。映画の中で、12・4辻・正田虐殺事件に触れた僕の証言場面がかなり強い印象を与えることと、新左翼の運動が大衆の支持を失い衰退していく決定的な契機となった問題であるからだ。

 僕がそこで言いたかったのは、①革マルとの対決は極めて重大な課題であった。それは革マル=松崎動労=JR総連による国労圧殺→総評・地区労解体が、日本の社会運動全体に与えた致命的打撃を考えても明白である。②しかし、革マルを反革命と規定し、国家権力と同列において軍事的に打倒することを主軸とする方針は根本的に間違っていた。革マルは極めて特殊な「革命党派」であるがゆえにこそ、対立党派や大衆運動の圧殺を目的意識的に遂行できるのであり、それとの闘いは民衆を巻き込んで解放闘争的に行うべきであった。③そのためには、革共同自身の革命党としての自己批判=自己解体的な変革が必要だった、ということである。

 しかし、発言時間が制限されていたことと、かつて中核派が大衆運動の現場に強引に「革マルとの対決」を持ち込んだことと同類な感じを与えたかして、あまり理解されず、壇上に並んだ他の証言者から非難される結果となった。

 結果的に判断すると、どちらの集会でも、短い時間で複雑・微妙な問題について自説を展開するのはやはり無理があった。集会の主催者や壇上に並んだ発言者たちに迷惑をかけたことを謝るべきだろう。

 ただ、「10・8山崎博昭プロジェクト」の運動と映画『きみが死んだあとで』が、関係者の自己慰撫や同時代人のノスタルジアに止まることなく、現在の社会的課題に向き合う、とくに若い世代の方への問題提起になって欲しいという意図だけは汲み取っていただければありがたい。

政治的総括について

 そういう流れからすると、本来なら、このサイトにおいて、60〜70年代の運動=組織の全面的な総括をすべきかもしれない。

 『かつて10・8羽田闘争があった』(寄稿篇)に収録された「10・8から50年を生きて」では、枚数の制限もあって、個人としての生き方という観点からだけ総括した。より広い政治的総括としては、このサイトに収録されている「ライフワークとしての栽培クラブ」の中で、一般の人向けに概略的な視点だけを述べている。今後、より深く論じる機会があれば、挑戦したいと思う。

 いっぽう、大阪集会後の懇親会で、「トーク」場面での僕の発言を巡って少数の関係者とかなり突っ込んだ話をして感じたのは、「革マル問題」を体験の共通性を抜きに語り合うことの困難さと、自分の体験を具体的に語ることの困難さの両方であった。「僕の経歴の概略と記録&総括すべきこと」の末尾にも書いたことであるが、この問題はまだ解決していない。

 以上、とりあえずのコメントとしてアップしておく。

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