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同上 『牧野義隆 略歴」

  • redvine
  • 1994年4月19日
  • 読了時間: 7分

一九四六年(以下、西暦年号の一九〇〇年代は省略する) 

   一〇月一一日、守口市大枝東町の自宅にて、姉ひと

  り、弟ふたりの四人きょうだいの長男として生まれ

  る。

   牧野家は、祖父が昭和四年頃に自宅で開業した理髪

  店を営んでいた。学問好き、読書好きの父の影響もあっ

  てか、牧野は、なによりも本を読むのが大好きな、お

  となしい子供として育った。他には相撲が好きで、力

  士の名前を全部知っており、自分で作った紙ずもうで

  よく遊んでいたという。きょうだい仲は大変よかった。

五三年 四月、守口市立三郷小学校入学。学校の成績はずっ

  とよかった。二~三年生の時の担任の先生が、児童向

  きの文学全集を高学年向きのものも含めて奨めてくれ

  たこともあって、ますます本ずきになったようだ。三

  年生頃からそろばんの塾に通い、卒業のときには二級

  であった。

五九年 四月、越境して大阪市立天王寺中学校に入学。

   天中は三学年とも同じクラスがもちあがる制度で、

  六〇人程のクラスメイトの結束は固く、ここで福田徹、

  杉本恵蔵、宮本鐵太郎、山口俊二ら終生を通じての親

  友と出会った。牧野はクラスのリーダーの一人であり、

  委員長をしたり、文化祭での合唱コンクールの指揮を

  とったりした。

   また、他人に積極的に話しはしなかったが、既に、

  社会的・文学的な関心は高く、中野重治の詩を愛読し、

  雑誌『新日本文学』を読んだりしていた。

六〇年 三月、校庭で鬼ごっこをして遊んでいる時、階段

  を飛び降りて足の骨を折り、三ヵ月間入院の後自宅静

  養して、二年生の一学期は登校しなかった。

   この自宅静養の時、牧野は安保闘争、とくに全学連

  の闘いに共感し、国会デモのニュースを見るため、毎

  朝足を引きずって新聞を取りにいった、という。

六二年 四月、大阪府立大手前高校に入学。

   赤松と同クラスになり、共に社会科学研究部に入る。

  加藤敦史も加えた三人で、社研部の活動を中心的に担

  う。六〇年安保闘争後の当時、既に「正統派」マルク

  ス主義=共産党の権威は失墜しており、マルクス主義

  志向を前提としながらも、運動潮流としては新左翼、

  思想潮流としては実存主義、思想家としては吉本隆明

  や谷川雁が共通の関心事であり、コリン・ウィルソン

  の『アウトサイダー』がバイブルであった。牧野は、

  社研部の機関紙「霧笛」、機関誌「新世代」にいくつ

  かの原稿を発表している。

   また社研以外でも、素人劇団「ルシールカ」を結成

  して自治会祭で劇を上演したり(脚本は牧野が担当)、

  四人詩集『イルミネーション』を作成したりした。放

  課後は、連れ立って梅田まで歩き、梅田新道から桜橋

  にかけて並んでいた数軒の古本屋を覗いたり、旭屋書

  店に行ったり、アート・シアターで映画を見たり、喫

  茶店でだべるのが日課であった。こうした行動には、

  社研部と部室が隣あっていた演劇部の神尾賢二やES

  Sの野島研巳、中学からの友人福田、社研の二年後輩

  岩脇正人らもよくつきあった。

   学外では、赤松と共に、関西ブント系の労働者学園

  で詩人野村修が講師をしていた文学クラスに参加。

   卒業間際に、赤松、神尾と同人誌『イルミネイショ

  ン』を発行、エッセイを寄稿。大学は、京大と静岡大

  を受けることにした。二期校として静大を選択したの

  は、「政治否定の政治学」をキャッチフレーズにした

  マルクス主義政治学者・柴田高好の存在が大きい。

六五年 四月、静岡大学人文学部法経学科入学。仰秀寮・

  映寮に入る。一年後に寮を出て、同じく大手前から人

  文学部に入った火置敏彦と同居する。

   二回生の終わり頃までは、授業にもそこそこ出たし、

  友人との遊びを楽しむ、ややアナーキーで牧歌的な学

  生生活を送った。また、当時毎月発行されていた中学

  のクラス同窓会機関紙に「◯月の詩(うた)」を連載

  したりした。

   学生運動との関わりでは、京大と早大で活動家になっ

  ていた赤松や神尾とのつながりもあって、一回生の時

  からマルクス主義学生同盟・中核派に加盟し、デモな

  どには参加していた。しかし、静大支部の指導部とは

  距離をおいていて、活発な活動家ではなかった。

六七年 前年一二月に再建された全学連(三派系)の指導

  権を中核派が握り、二月砂川基地拡張反対闘争を突破

  口に七〇年安保に向けて学生運動の激発路線を突っ走

  るようになる。この頃から牧野は静大の運動に本腰を

  いれるようになったが、完全にのめり込むのは、やは

  り佐藤ベトナム訪問阻止一〇・八羽田闘争以降であろ

  う。この闘争では現地で共に闘った、大手前高校の後

  輩・京大生山崎博昭が死んでいる。

   一一・一二佐藤訪米阻止第二次羽田闘争で初逮捕。

六八年 一月エンプラ寄港阻止佐世保闘争を皮切りに王子・

  三里塚と闘いの日々が続く。この頃には安田克彦と共

  に静大中核派の中心となっていた。

   八月、人文、理学部が市街地の大岩から郊外の片山

  に移転(教養部は既に六七年四月に移転済み)。九月、

  法経短期大学部の移転阻止を掲げて法短自治会が無期

  限バリケードストライキに突入して、静大闘争が始ま

  る。この過程で牧野らの住居も片山に移る。

   一〇・二一静岡市内デモで逮捕。翌二二日父親死去。

  釈放されて、葬儀に参列。

   一一月、全学闘争委員会結成。学長・評議会団交。

六九年 一月本部封鎖。二月教養部A棟封鎖。闘争拡大。

  しかし、学生大会でのスト決議はならず。

   四・二八沖縄闘争の総括をめぐって、革共同(中核

  派)に深く失望。以後、内的葛藤を抱えながら、全闘

  委を指導。六・一二A棟バリケード解除。七月、静大

  闘争総括論文を執筆。

   「吉本隆明ノオトⅠ」を書きながら思想的・政治的

  模索を続け、運動の敗北戦を自分なりにけじめをつけ

  て全うするために一〇・二一闘争に決起する。逮捕さ

  れ、中野刑務所に勾留。

七〇年 三月、獄中で「<生活>についての断章」を執筆。

  深見虔一との同人誌『布石』に発表。

   一〇月出獄。大学は既に除籍になっており、大阪の

  実家に戻る。

七一年 一月、須川龍泉堂(印鑑商)に就職。

   三月、戸塚忍と結婚。忍とは静大時代からのつきあ

  いで、忍は理学部を六八年三月に卒業した後、中学校

  の数学の教師として大阪に来ていた。

   一一月、長男司誕生。

   この年から、高校時代の友人、福田、加藤、野島ら

  との付き合いが家族ぐるみで復活し、七三年頃までは、

  みんなで古事記や微積分の勉強会をおこなったり、散

  歩を楽しんだりした。一方、自分では、「布石」論文

  の問題意識に基づいて読書を続けている。

七三年 八月、長女遼子誕生。

七五年 一月、特許機器株式会社に入社。同社は静大時代

  の後輩の兄が、父の発明した機械や建築物の防震装置

  を作るために六九年に数人で創業した会社であり、こ

  の年までに福田や火置ら友人が入社していたが、当時

  はまだ社員十数人の零細会社であった。

   牧野は、総合企画室長として、総務・人事・経営戦

  略などを担当し、社長を補佐して各部局をまとめた。

  人間的紐帯で結ばれた小さな会社が、パイオニア的業

  界での全国メーカーとして、現在社員一三〇人、年商

  約五〇億円の中堅会社に成長するうえで少なからぬ役

  割を果たした。

七八年 一一月、次女悠子(ひろこ)誕生。司、遼子の頃

  はかなり厳しい育て方をしたが、悠子にはめっぽう甘

  かった。といっても、全員に寝る前に布団の中で本を

  読んでやったり、休日に一緒に散歩に行くなど、家庭

  ではつねによき父親であった。

八二年 高槻市弥生が丘町に転居。

八四年 八月、深見とともに学生時代の友人らに会合を呼

  びかけ、一〇月「櫂の会」を結成。以後、毎年例会を

  開いて討論を行い、その結果を機関誌に発表した。

八五年 一一月、「櫂の会」第二回例会で、「日本的なも

  のをめぐって」を報告。

   この頃から土曜日に、家族全員で万葉集の勉強会を

  するようになる。六年ぐらい続いた。

八六年 七月~八月、B型肝炎で一ヵ月余入院。入院中か

  ら精力的に本を読み、退院後は仕事をややセーブして、

  資本論勉強をはじめとして、計画的に読書し、ノート

  を多くとるようになる。

九一年 二月、特許機器の創立二〇周年記念展示会を東京

  で開催。牧野は事務局長として、「振動」をテーマに

  広い視野にたった催しにすることに熱意を燃やし、成

  功したことを大いに喜んだ。

   このころから体調不良が続く。微熱が続き、寝つけ

  ないのに苦しんだ。六月の「櫂の会」第八回例会も中

  座している。

   この年、出張で韓国のソウルに行く。

九三年 五月、本格的に診断、療養するために、高槻市の

  大阪医大病院に入院。五月一三日、容体急変して、心

  不全により急逝。

 遺児は、現在、司が神戸大学工学部大学院一年、遼子が

大阪教育大学小学校課程三年、悠子が芥川高校一年に在学

中である。

(この略歴は、編者が作成した。誤り、脱落がある節はお

許し下さい。また人名の敬称はすべて省略させていただき

ました。)

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