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藤原辰史を読み、考える

はじめに


 【以下の文章は、2022年7月27日から8月16日にかけて、フェイスブック個人ページに断続的に掲載したものをまとめたものです。】


 このところ作業の合間に、藤原辰史(京大人文研准教授、専門は農業史・食の思想史)のいくつかの著書を集中的に読んできました。

 著者の存在を知ったのは、デビュー作の『ナチスドイツの有機農業─「自然との共生」が生んだ「民族の抹殺」』(柏書房 2005年)が話題となった時で、僕自身ずっと問題意識としてきた「エコ思想の重要性と危険性」にズバリ迫る研究として注目したのです。とは言え、実際に買って読むところまでいかず、そのままになっていました。

 改めて強い関心を持つようになったのは、彼が2020年10月に朝日新聞読書欄の書評委員になったことがきっかけです。現在まで1か月に2冊ほどのペースで紹介された43冊の書評のほとんどに、その本の選択そのもの及び紹介・批評の内容で感心させられてきました。それで、専門分野の研究者としてだけでなく、人物そのものに興味を持つようになったのです。

 そんなこともあって、ある読書会でチューター役を引き受けた時、彼の本を取り上げることにして、手軽さと「育種」というテーマへの興味から『稲の大東亜共栄圏 帝国日本の<緑の革命>』(吉川弘文館 2012年 1700円)を選んだのです。

 同時にこの機会に、いくつかの他の著書もまとめて読むことにしました。これから何回か不定期に、その感想を述べることにします。といっても、著書の感想そのものというより、それに触発されて考えたことが中心になるでしょう。



①育種=品種改良について


 最初は、『稲の大東亜共栄圏』のテーマである<育種=品種改良>についてです。  この本は、日本人にとって大切な稲の品種改良の歴史をたどり、それが「帝国」日本の天皇制と植民地支配にいかに利用されてきたかを暴き出すと共に、それが現代資本主義=多国籍企業の生態学的帝国主義(「緑の革命」)の先駆となったことを明らかにして、対決の方向性を探るものです。


 具体的な叙述としては、生物学や遺伝学の最新の研究を応用した育種技術の営々たる努力が、気象条件や病害を克服して多収で食味の良い新品種を開発していく過程に感銘を受けると同時に、優秀で人間的魅力もある技術者たちが結局は日本帝国主義の植民地支配と自らを一体化させていく恐ろしさがリアルに迫ります。


 このテーマ自体が重要なのですが、僕がここで考えてみたいのは、「品種改良は全ての農業技術の司令塔である」というテーゼです。すなわち、品種改良という技術は、耕地整理や水利事業、肥料の普及、農作業の機械化などによって構成される農業技術近代化のパッケージの一部に過ぎないにも関わらず、その他の技術や技能のいわば司令塔になる特殊性を持っている、ということです。


 品種改良そのものは(メンデルの法則の適用から遺伝子操作へという)科学技術に支えられた膨大な試行錯誤から生み出される地味な技術です。しかし一旦新品種が生み出されるや、機械化等の他の投資を待たずとも顕著な成果を生み出すことにより、他の諸技術のあり方をも規定する役割を果たすわけです。


 僕がワイン用ブドウ栽培に携わるようになり、山梨県の農政関係者や農業技術者と付き合うようになって奇異に感じたのは、育種部門が花形とされ、ワイン用ブドウについても、世界的に高貴品種として定評のある欧州系専用品種と日本の気候風土に適した山ブドウ系及びアメリカ系との交配品種育成に主力を傾注していることでした。なぜなら、そうして生み出された品種のことごとくが、多少栽培性は容易になるが、品質面で(片方の)親に遥かに及ばないため、普及しないものばかりだったからです。


 しかし、今では理解できます。日本のみならず世界的にみても、この百数十年間の農業の歴史において、品種改良こそその「進化」の最前線をなしてきたこと、逆にその点で、ワイン用ブドウが例外的存在だったということです。


 僕自身、他ならぬブドウ栽培の世界においてこのかん、新品種の登場が農家・農政・地域そのものを変える事実を目の当たりにしました。<シャインマスカット>の出現です。

 2008年、勝沼の中央葡萄酒鳥居平農園の一画18アールの土地でメルロを契約栽培(実態は社員との共同栽培)していた地元農家Oさんが、シャインマスカットという新品種を高接ぎするからと、契約破棄を通告してきました。彼によると新品種は高価に売れ、収入が激増するが、多くの農家が追随するから5年も経てば値下がりする。今のうちに儲けなければ、ということでした。会社にとって、日本ワインコンクールで初めて金賞を受賞したブドウを生んだ大切な圃場でしたが、地主の要求を断ることもできず、認めるしかありませんでした。

 Oさんは先見の明があったわけですが、見通しは外れてもいます。すなわち、15年近く経った今も、シャインマスカットは高値で売れ続け、耕作面積は拡大の一途を辿っているからです。


 それどころか、この新品種は県の農政をも変えました。  当時、山梨県のブドウ農家は減少し続け、とくに伝統品種の甲州種は絶滅の危機を叫ばれていました。いっぽう、中央葡萄酒を筆頭として、国産ワインの高品質化を追求し、甲州を世界に通用する白ワインとして発展させるという努力が実を結び始めてもいました。そこで三澤社長は、県が音頭をとって遊休地を集約したり・新たに造成したりして大規模な農地を整備し、醸造用の甲州栽培を一挙に拡大する施策を提案し、苦境に直面していた県の農政も真剣な検討を始めたのです。

 ところが、シャインマスカットの出現によって、既存農家は息を吹き返し、新規就農も増加傾向になるに及んで、抜本的な甲州栽培拡大策は推進されなくなりました。  まことに、一つの新品種が世の中を変えたのです。


 それでは、なぜワイン用ブドウでは育種=品種改良が大きな成果を上げていないのでしょうか?

 それは、ワインが日常的に飲まれるとともに特別な飲み物でもあるという、人類の長い歴史と文化を背負った特殊な性格(ヒュー・ジョンソンの言葉で言えば、「ワインは聖性と癒しを合わせもつ唯一の飲み物である」)に起因します。


 現在のジョージア周辺を原産地とし、地中海地方に広がったブドウ─ワインは、キリスト教と結びつくことによって、ローマ帝国の版図拡大と共にヨーロッパ全体に広がり、その過程で偶然の交配や突然変異による新品種の登場と、修道院等における信仰の証としての高品質ワイン生産の努力が相まって、各地に特有の品種が根付き、それが産地=テロワールそのものの魅力として珍重されてきました。

 しかし、ヨーロッパ列強の世界支配による新世界でのワイン生産の発展(欧州系品種の移植及び現地品種での生産)によって、産地と品種の切り離しが進み、全世界で欧州系高貴品種の栽培が発展し、新たな銘醸地が各地に生まれます。

 そして醸造技術の世界的平準化と貿易の自由化により、一方で安価でそれなりの品質のデイリーワインが輸入品として容易に入手できると共に、他方でさまざまな困難を乗り越えて、高品質で品種と産地の特質を表現したクオリティワインが生み出されています。

 こうした中では、「栽培しやすいけれども、親の品質には及ばない」中途半端な交配品種ワインは顧客に歓迎されず、「栽培の苦労を努力で克服して、高品質を追求する」在来高貴品種のワインが支持されるわけです。


 これらからわかることは、品種改良という技術も技術それ自体で存在するのではなく、その品種=農産物をつくり、享受する農民や消費者の欲望や生き方と結びついてはじめて存在するということです。




②現代農業への根源的批判


 読書会のテキストにした『稲の大東亜共栄圏』からスタートした関係で、前回、<農業技術全体の司令塔>としての特質を持つ<育種=品種改良>への考察からこのシリーズを始めました。  今回は、近代〜現代の農業技術全体の特質について、主に『トラクターの世界史』(中公新書 2017年)と『戦争と農業』(集英社インターナショナル新書 2017年)を素材に考えてみることにします。


 藤原は『戦争と農業』の第一講「農業の技術からみた20世紀」の中で、農業を革命的に変えた農業機械、化学肥料、農薬、そして品種改良を「20世紀の人口増加を支えた四つの技術」と呼んでいます。そしてその連関をトラクターを中心とする農業機械の発展から解き明かすのです。


 大阪生まれの都会っ子で農業・農村と無関係な人生を歩んできた僕は、中央葡萄酒に入社してから初めて土に触れ、農業に取り組みました。最初に触った農業機械は<管理機(テーラー)>と通称される歩行型のトラクターで、それで除草作業をしました。その後、動力噴霧器での農薬散布、小型トラクター(ヤンマー製12馬力)での施肥・耕耘、スピード・スプレーヤー(SS)での防除、刈り払い機及び乗用モアでの草刈りなどに従事した後、大規模垣根式農場である現三澤農場の建設に取り組む過程で、輸入品のヴィンヤード専用トラクター(ニューホランド社製 70馬力あるが、垣根式の畝間を通るため車体の幅が狭い)及びその各種アタッチメント(耕耘・防除・摘心・施肥・リフト・除草etc.)を導入した経験を持っています。また、明野に自宅を構えてからは、狭い自家菜園でクワやカマなど古典的農具での人力農耕や家庭用ミニ耕運機(ホンダ製)での作業も経験してきました。


 そうした経験からしても、トラクターの魅力はよくわかります。『トラクターの世界史』は19世紀末に誕生したトラクターが20世紀の農業と世界、人類の歴史を根底から変えた有様を活写しています。最初にトラクターが農場の主役になったアメリカの農民たちの熱中ぶりや反面での憎悪が凄まじいですが、ある意味それ以上に、レーニン・スターリン・毛沢東たちのトラクターとそれを梃子とする農業近代化・集団化への理想・希望・憧れと現実にもたらされた結果的惨劇の落差の巨大さには、マルクス・レーニン主義及び反スターリン主義の思想の信奉者として政治的予備知識のあった僕ですら、心底驚かされます。


 そしてそのトラクターの普及が牛や馬を農業現場で不要とすることによって、結果として畜糞─堆肥の代替となる工業的肥料の必要を生み出し、それに応えて、空中窒素固定法の発明が大量の化学肥料の工業的生産を可能とし、肥料会社─化学企業(日本でいえば、日本窒素肥料や昭和電工など水俣病をもたらした元凶)を成立させるのです。


 さらに第三の技術としての農薬、とくに有機合成農薬が病害虫の被害を軽減して農業の生産性を飛躍的に高め、雑草と闘う労苦からの解放をもたらす一方、その普及から時をおかずして、深刻な健康被害や環境破壊をもたらすことも明らかになります。


 そして以上三つの技術を統括する技術としての品種改良については、前回考察したところです。それは今日では、「遺伝子組み換え」の技術によって、種子の提供をモンサントなどのバイオ科学企業が独占することによって、農業の営みと農家の存続そのものを、企業の利益追求システムに従属した一構成要素にすぎないものに転化しようとしているのです。


 このように現代の農業技術を批判的に解明した藤原は、さらに重要な問題として、『戦争と農業』の第二講「暴力の技術から見た20世紀」において、農業技術と戦争との深い結びつきを指摘します。すなわち、第一次世界大戦の過程において、トラクターから戦車が生まれ、化学肥料から火薬が生まれる一方、戦争のために開発された毒ガスが戦後、殺虫剤や枯葉剤すなわち農薬に転換されることによって生き残るのです。


 ここで筆者が、かつて見ない大量殺戮・人間存在の破壊をもたらす現代の戦争、大量破壊兵器による殺人と現代の農業技術を通底する問題として、人間の自然との付き合い方及び人間に対する付き合い方の硬直化、感性の鈍麻、マニュアルに従うのみの装置化といった問題を指摘していることは極めて重要です。


 これまで何度か表明してきたように、僕は人類史的な大局観から環境保全型・持続可能な循環型の農業を志向し、除草剤や化学肥料は使わないようにしていますが、欧州系専用品種のブドウを栽培し高品質なワインづくりを目指す目的との関係で、最低限度の殺菌剤や殺虫剤の使用を容認するため、無農薬ないし有機農法という立場を取っていません。ただし、そうした農法や立場を否定している訳ではもちろんありません。


 この問題に関して一番重要だと思うのは、いずれかの農法の採用によってそのマニュアルを金科玉条とすることへの自戒だと感じています。つまり大事なのは、自然・農作物そのものと人間・自分自身との肌で直接触れ合う一体感や共感性、畏れや感動であり、病気や虫や草といった存在を農薬の使用によって無視してしまうのではなく、それを知り、悩み・格闘しながら、可能な限りコントロールする努力だと思うのです。


 今日、農業の技術的発展の最前線は、明野に住み、ブドウ栽培に携わる僕の周辺にも迫ってきています。農場の近くには、スプラウトやトマトやパプリカなどを栽培する、いわゆる「植物工場」の巨大施設が次々に進出するいっぽう、山梨大学やIT企業と共同して、AI技術の駆使によるスマート農業を発展させる試みが、ワイン業界でも<環境への配慮>をも謳い文句にしつつ展開されようとしてします。


 こうしたときだからこそ、農業技術の発展を狭い<科学技術史>の枠で捉えるのではなく、技術の変遷が人々の心性や想像力・生活文化にどのような影響を与え、それが社会にどのようなインパクトを与えたのかを考察する歴史学の方法として<技術文化史>を提唱する藤原辰史の研究に学ぶ意味は大きいと確信します。そしてそのような問題意識を持った現場実践家として、苦闘しながら前進していきたい思います。




③「食べる」ことから考える


 前2回で、農業(技術)の歴史を広く世界の歴史全体の中で、またそこで生きる人々の心や営み総体とのつながりの中で考えるという、農業史研究者・藤原辰史の業績の主たる流れについてまとめました。  ところで、彼の研究のもう一つの特徴は、農業の生産面について考えるだけでなく、消費面というか、人間にとって「食べる」ことの根源的重要性を真正面から考えようとすることでしょう。


 『ナチスドイツの有機農業』でデビューした藤原は、2冊目として『カプラの冬─第一次世界大戦期のドイツの飢饉と民衆』(人文書院 2011年)を著して、<飢え>が民衆と歴史を動かす要因としていかに大きいものか、そしてナチスがその対処策として英米やユダヤ人への排外主義を組織した様相を描きました。


 その後も、『ナチスのキッチン─「食べること」の環境史』(水声社 2012年)、『食べること考えること』(共和国 2014年)、『給食の歴史』(岩波新書 2018年)、『食べるとはどういうことか─世界の見方が変わる三つの質問』(農文協 2019年)、『縁食論─孤食と共食のあいだ』(ミシマ社 2020年)と立て続けに<食>をめぐる論考を発表しており、今では肩書きも「食と農の思想家」というにふさわしくなっています。


 特に最近著の表題にもしている「縁食」というコンセプトについては、自分の研究室のホームページで<研究概要>を説明するにあたって、「分析概念として『分解』(ものを壊して、属性をはぎとり、別の構成要素に変えていくこと)と『縁食』(孤食ほど孤立してなく、共食ほど強い結びつきのない食の形態)を用いて、自然界と人間界とを同時に叙述する歴史の方法を考えています」と記すほど重視しているようです。


 話は変わりますが、僕が広い意味で同世代の(かつて運動・党派に関わり、現在の政治を憂う)人々に常日頃感じていることは、古巣の運動を応援したり、選挙に際してどこかの政党に投票したり、政治的悲憤慷慨をSNSで発表したりするのもいいけれど、自分の社会的実践のフィールドを持ってほしいということです。そしてそのフィールドは、まさに現在の自分自身の生活上の諸問題(医療・介護・困窮・子や孫との関係・交流への欲求etc.)を同じ問題を抱える周囲の人々とともに解決しようとする中で必ず形成されると思うのです。いや、自分自身に急迫せる問題がないという人にとっては、周辺に必ずいるだろう切迫せる問題を抱える人に少し手を差し伸べればいいわけです。


 こうした実践において、藤原が提唱する<縁食>的営み、すなわち炊き出しや子ども食堂や公衆食堂や縁側カフェ・・・さらには世界の飢餓をなくすための無料食堂等々の活動はきわめて重要な課題です。なにより、生きるためにはまず食べなければならない、という切迫性がありますし、食べることには必ず人と人のつながりが存在し、他の問題につながるだろうし、現在の地球上には、数億の飢えた民衆がいるいっぽう、世界的には食糧は過剰で膨大な量が日々捨てられているという背景的基盤があるからです。コロナ禍で、一時現実的政策課題となるかに見えたベーシックインカムの議論にとっても、現金給付オンリーではなく、食をはじめとする生活必需品及びサービスの現物供与が必要ですし、それをモノの脱商品化の水路にするという切り口が大事だと思います。


 再度話を変えると、今週末6日に再開第1回目の赤松塾を『きみが死んだあとで』上映会として行う予定です。この会は通常午前中で講師の報告を終え、昼休み休憩では僕が料理したランチを提供し、午後の討論は各人が持ち寄ったワインなどを飲みながら談笑的に行ってきました。今回は上映時間3時間20分の映画なので、昼食休憩を挟む上下2巻の上映となり、討論の時間はいつもより短くなりますが、やはり同じようにやろうと思っています。


 こうした形態をとることについて、「宴会好きなだけじゃないか」と言われればそれまでですが、僕としては<食を共にする人間関係>を重視してきたわけです。その上で、今回、『食べるとはどういうことか』を読む中で、「そうだったんだ!」と腑に落ちるくだりがありました。

 小中学生との討論における<「食べること」はこれからどうなるのか?>という第三の質問をめぐって、宇宙食や栄養サプリのように、栄養的観点からは満点だが噛みごたえのない食事を批判する次のような箇所です。

 「しかし、人間は噛みます。脳内に血が巡ります。しかし、それだけではありません。噛むと食事中に時間が生まれます。この時間が、食事に、「共在感覚」、つまり「同じ場所にともにいる」気持ちを生み出すのです。この遠回りの行為が、人間を人間たらしめているように思えます。」


 僕が腑に落ちたのは、この中身そのものではなく(もちろん、それ自体納得できることです)、僕がなぜ呑みながら食事をするのが好きなのか、ということでした。これも「呑兵衛だからじゃないか」と言われればそれまでです。しかし、僕は子供の頃から食べることも料理することも好きであるとともに、いつからか(長い活動家生活が原因でしょう)、早食いの癖がついてしまったのです。だから、酒を飲んで、食事が「アテ」「肴」になることによって初めて、「食事中に時間が生まれ」るようになり、「人間たらしめ」させてもらっているわけです。


 今回は、藤原の著書を紹介するより、酒飲みの自己弁護をする終わり方になって、すみませんね。




④「自然派」が排外主義に結びつかないために


 僕が藤原辰史を知ったきっかけが『ナチスの有機農業─「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」』の出版であったことはシリーズの冒頭で述べた通りです。

 今回、改めて購入して一読しました。有機農業の源流(の一つ)であるバイオダイナミック農法(ワイン関係者にとってはフランス語のビオディナミの方が身近でしょう)の誕生と展開について歴史家として本格的な分析があって、参考になります。

 ナチズムそのものについても、その自然観・生命観(「人間中心主義」から「生物圏平等主義」へ)を詳細に見るとき、結果としてのホロコーストへの批判から、その過ちが自明なもの・歴史的に決着がついたものしてと片づけることはできないと感じます。 

 なお、現在この著書の骨子はネット上の「現代新書カフェ」(講談社)のコラム「エコの代名詞『有機農業』が、ナチスと深く関わった過去」で誰でも読めるので紹介しておきます。<https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57856?imp=0 >


 この文章で藤原は、「ナチス的なもの」に絡め取られないために、有機農業が紡いでいくべき哲学について、3点を指摘しています。  第一は、排除の構造がないか、つねに点検を怠らないこと。(低所得者の排除や他民族への排外主義)  第二に、人口論に陥らないこと。  第三に、景観保全という考え方にも注意が必要であること。


 どれも重要な論点ですが、僕としては、もう一つ、反ユダヤ主義的・陰謀論的な反グローバリズムへの警戒を挙げておきたいですね。  この問題がアクチュアルに重要なのは、今回の参院選における選挙活動及び議席獲得で注目された「参政党」の特質を見ればわかるでしょう。


 僕が自分で追跡した訳ではないから紹介にとどめますが、古谷経衛の分析によれば、参政党は天皇制・防衛問題・歴史認識・教育問題などにおいて他の右派政党とも共通の主張をするものの、それは従属的で、主張の本流はオーガニック信仰なのだといいます。その意味では、支持基盤になっているのは、比較的生活に余裕のある中間層で、本来は自民党に批判的なリベラル派と重なる人たちが、(陰謀論に近親的な)反グローバリズムを介して、日本礼賛の排外主義的保守主義に流れる危険性を体現しているように思われます。


 以下、藤原の本と離れて、有機農業をめぐる個人的な経験を述べます。

 僕が有機農業に問題意識を持ったきっかけは、1996年に中央葡萄酒に入社し、ブドウ栽培に初めて取り組んだ際、会社の方針で「勝沼EM研究会」に入ったことです。この会は、第1回の品種改良に関して、メルロからシャインマスカットへの品種転換の絡みで紹介した地元農家のOさんたちが組織したもので、当時注目され始めたEM(Effective Micro-organisms有用微生物群)技術をブドウ栽培に取り込もうとする勉強会でした。この会に、中央葡萄酒以外にも丸藤葡萄酒や勝沼醸造(後にはシャトレーゼ)の栽培担当者たちが入会していたのは、EM技術そのものへの関心というよりは、各社の経営者たちが栽培担当社員(僕以外はみんな20代の若者)にブドウ栽培そのものをベテラン農家から学ばせるためでした。

 【本論とはずれますが、当時の勝沼のワイン会社の仲の良さは企業というものに慣れていない僕にとって、予想外のことでした。それには、浅井昭吾=麻井宇助氏が作り出したトップ企業であるメルシャンの懐の深さと、協同して日本ワインの時代をつくりだそうとする勝沼ワイナリーズクラブの若き経営者たち(三澤、大村、有賀、内田らの諸氏)の情熱が影響していたのでしょう。ワイン業界自体は大きく発展したものの、競争が激化した今日から見れば、牧歌的なあの時代が懐かしく思われます。】


 しかし僕自身は、思想的にも有機農法に共鳴したため、ある期間、本気でEMに取り組みました。提唱者である比嘉照夫氏の講演会や全国の先進地見学会に参加し、ボカシ肥料(籾殻、米糠、油粕、魚粉などの有機物をEM菌で発酵させたもの)を自作し、防除にもEM溶液や木酢などを積極的に活用したりしたのです。このようにして数年を経るうちに、いくつかの問題点を感じるようになりました。


 第一に、微生物の重要性は明白であるが、それを有用な菌を比嘉が理想的な割合で配合したと謳う「EM菌」なるものに代表させること。特に嫌気性の菌が主体なのは、農業で使う際に大問題ではないのか、という点。

 第二に、永年性の作物である果樹の栽培においては、すでに様々な条件下で生育した樹木を対象に当該年の栽培活動が付与されるため、ある技術・実践がどのような効果をあげたという判断が一義的でないこと。

 第三に、農業や環境改善にとどまらず、医療などあらゆる問題にEMが特効薬になりうるかのようなEM万能論的主張がなされ始めたこと。

 そして最後に、こうした諸問題に関して、EM普及のスポンサーとなった世界救世教(大本教の幹部だった岡田茂吉が立教した新宗教で、戦後間も無くから農薬や化学肥料を使わない<自然農法>を提唱。それを支援する技術としてEMを採用し、その普及を丸抱え的に支援している)のイデオロギー的影響を受けてしまうこと。これに付随して、EMを著書などで大々的に宣伝した船井幸雄の波動理論やオカルト的スピリチュアリズムとの関係。  実際、勝沼EM研に参加する農民の中には、Oさんのように実利的観点からEM技術を採用する人と並んで、観光園主のSさんのような救世教信者の人もいて、そうした人の思考方法や実践に対する向き合い方をつぶさに観察することもできました。


 こうしたことから僕はEMと距離を置くようになり、三澤農園を開園して以降は、自製するボカシで広い面積をまかなうこともできず、好気性の菌を使った発酵資材の購入に転換するとともに、欧州系ブドウの栽培に関して有機農法をめざす志向もいったん断念した訳です。


 いっぽうワインの世界でフランスを中心に、ビオディナミ農法及びヴァンナチュールの流れが勃興し、世界的にも持続可能な農業及びオーガニックワインへの志向が大きな潮流となっていきます。日本でもそれに影響されて、ビオディナミ農法を厳格に実践するつくり手や、漠然と<自然派>を名乗ったりするつくり手が台頭してきます。  これには、環境問題の深刻化に現れる時代の動向を根底におきながら、特殊には、品種改良がワイン用ブドウでは主流にならなかったことと同じ事情が影響しています。  つまり、ワイン用ブドウの世界では栽培容易性や豊産性は目標とならず、一般的に言っても、収量制限による品質向上が追求されます。だから、他の農産物では致命的欠陥となる収量減がさほど問題とならず、逆に希少性がもたらす付加価値の増大が経営的にも目標たりうるのです。そこに情報化時代にともなう<情報を売り物にする>傾向が重なるわけです。


 この流れの中で、僕もビオディナミについて調べました。月齢の重視など、植物生理にとって有用な見解もありましたが、具体的な処方には、あらゆる宗教につきものの問題性─その当時・場所においては現実的根拠のある方針が普遍・一般化されて戒律・教条(ドグマ)とされる─が感じ取れました。そのため、EMをめぐる葛藤を経た後でもあり、深入りはしませんでした。


 今日では、日本におけるビオディナミや自然派の実践者の中にも、幾多の試行錯誤を経て、成果を上げつつある作り手もいるようです。  そうした経験を謙虚に学ぶことも、今後必要になるでしょう。  しかし、前にも書いたように、何らかの農法のマニュアルを金科玉条とする過ちには陥りたくないものです。




⑤ウクライナ本をめぐって


 今回取り上げるのは、小山哲・藤原辰志共著『中学生から知りたい ウクライナのこと』(ミシマ社 2022年)です。  実はこの本は、僕が選んだものではありません。このかん藤原の著作を集中的に読んでいる時期に、つれあいが突然、「ウクライナ問題について、とても分かりやすい良い本を見つけたんだけれど、これ、あなたがいま読んでいる本と同じ著者でしょ」と見せられたのです。彼女はいまやすっかり藤原ファンになっています。


 この本は、すでに紹介した『縁食論』を発刊した個性的な出版社ミシマ社のウェブ雑誌に藤原が発表した文章や、オンラインイベント「 MS Live!」での藤原と小山の講義及び対談をもとに、6月に緊急出版されたものです。共著者である小山はポーランド史が専門の京大教授で、2015年の安保法制反対の闘いの過程で結成された「自由と平和のための京大有志の会」の発起人仲間であり、いわば藤原の社会的活動の同志といえるでしょう。

 この本を素材に、三つのこと、すなわち①本そのもの ②藤原の社会的活動 ③ウクライナ問題に関する言論状況 について感想を述べることにします。


 まずこの本についてですが、第一の特徴は、冒頭に収録された「自由と平和のための京大有志の会」の「ロシアによるウクライナ侵略を非難し、ウクライナの人々に連帯する声明」(小山の原案をもとに討論して作成されたとのこと)に端的に表明されているように、いかなる留保もなしに、ロシアの侵略を徹底的に非難していることです。そしてウクライナの人々、戦争に抵抗するロシアの人々、全世界で反戦の声を上げる人々への連帯を表明しています。

 第二の特徴は、その上で、歴史家の責務として、ウクライナをめぐる複雑で長い歴史(それはヨーロッパ・アジア・ロシア・イスラム・ユダヤの歴史が重なり、2度の世界戦争と革命・東西冷戦とソ連圏の崩壊・新自由主義的グローバリズムの席巻という世界史と直結している)を紐解いて、現在起こっている事態の背景を深く理解させてくれます。

 第三の特徴は、その歴史を見る視線が、大国中心の勝ち組的目線、地政学風の力のゲームの理論に陥ることを拒否し、小国や侵略・抑圧されてきた民族、各地で普通に暮らす人々の視線を組み込もうとしていることです。藤原は「NATOとロシアという二項対立図式から離れ、プーチンによるウクライナの民間人の殺戮を、欧米とは異なった論理で、欧米よりも厳しく批判する」必要性を指摘します。

 第四の特徴は、「中学生から知りたい」という書名の含意です。本書はなるべく分かりやすい言葉を使って書かれていますが、それは大人(専門家)がわかっていることを子供(大衆)に平易に説明するという態度ではありません。中学生が学校で学ぶ程度の歴史・地理的知識を前提にして、現実を直視し・自分の頭で深く考え直すことによって、「政治家や学者やジャーナリストよりも深く考えることが可能だ」と示し、「私たち大人の認識を鍛え直す」という趣旨なのです。


 次に藤原の社会的活動について。

 僕は恥ずかしながら「自由と平和のための京大有志の会」の存在を、今回初めて知りました。会のウェブサイト(コメント欄にリンクを張っておきます)を見ると、安保法制問題以来、日本学術会議への介入問題や吉田寮・立て看・琉球奄美人骨・総長選など京大自身の問題などで声明を発するなど、今日まで継続して活発な活動を展開しているようです。それが現実にどの程度の影響力を持ち得たかは別にして、今日の大学と大学人の情けない状況の中では、貴重なものと言えるでしょう。

 また、藤原は会の活動をリードするとともに、個人としても、大学外のさまざまな集会に参加し、積極的に発言しています。先日は、三里塚闘争に長年取り組んできた全関西実行委員会の集会に講師として呼ばれ、現代の農業問題について話をしてきたようです。

 そうした中で、僕がとくに注目したのは、彼が自分のテーマとする<食>と<農>をめぐって、各地の市民・住民・農民たちの活動と実践的な付き合いを続けていることです。例えば、これまで紹介した著作の中でも、『戦争と農業』は滋賀県下の市民参加の政治運動、自然育児サークル、原発難民の保養、オーガニックマーケットなどに取り組む人々を対象にした「食堂附属大学」という会での講義をまとめたものですし、『食べるとはどういうことか』は生協のパルシステムの組合員・職員の子どもたちを相手にした座談会の内容をまとめたものです。

 こうした活動は、もちろん彼の学問的業績にもつながるでしょうが、なによりも、当該運動の参加者たちの問題意識を鍛え・育て、運動の発展に大きく寄与することになるでしょう。


 最後に、ウクライナ問題をめぐる現在の言論状況について、とくに「感性」と「知識」及び「信条」という観点から感想を述べます


 僕は、ロシアのウクライナ侵略以来、感じることを数度述べたものの、本格的に論じたことはありません。  現実の悲惨さ・深刻さを前に、自分が現実に対して実践的に何の影響も与えられない関係の中で、ただ自分の知識や見解をひけらかすような振る舞いをしたくないからです。【もちろん歴史家が、無力さを感じながらも自分の責務として歴史的分析を提供することの重要性や、政治党派や政治的諸個人が自己の見解を表明することの必要性を否定しているわけではありません。】


 ただ、日本の言論状況やいわゆる左派の中での評価の分裂には大きな危機意識を持っています。  まず、マスメディアの主流を占める、ロシアの侵略を批判しつつ、NATOの立場に立った軍事的・経済的対抗に自己を一体化させ、日本における軍拡や核武装の煽動につなげる傾向。  逆に、事態悪化の責任はNATOの拡大にあるとして、ロシア・プーチンを免責・擁護したり、アメリカ・NATOとロシアの代理戦争論、「どっちもどっち」論に陥る傾向  あるいは、現実の戦争被害の凄まじさと過去の歴史における暴力革命・解放戦争・武装闘争の否定的現実への総括から、武装抵抗を否定し、ウクライナ人民に降伏や逃亡を要求するに至る傾向。


 こうした傾向に対しては、なにより、いま現にウクライナに踏みとどまって(とどまらざるを得ず)生活し、ロシアの侵略に抵抗している民衆の存在に自己を擬してみる感性の欠落に呆れます。

 大学入学当時、アメリカのベトナム侵略戦争の拡大、ベトナム人民の不屈の抵抗を目の当たりにして、米帝の侵略戦争反対・日本の侵略加担実力阻止の闘いに立ち上がった僕は、その中で突きつけられる党派選択に直面して、ベトナム人民の闘いの中にまず<スターリン主義の問題性>を見る革マル派のオルグを「人間的感性からして受け入れられない」と拒絶しました。  その後の長い時間的経過の中で、一方で中核派と革マル派の共通の誤りをも身にしみて刻みこみ、他方で解放戦争に勝利して以降のベトナムの変質を見せつけられた後でも、あの時の闘いへの参加と党派選択は間違っていなかったと確信しています。


 しかし人間の<感性>とは、それを根拠に判断せざるを得ない一方、人それぞれであり、不確かなものです。  人は、自分の意志と関係なく生まれてきた環境の中で、自己を形成せざるをえません。それぞれの家族・地域社会・民族・国家という環境の中で、支配的な風潮・慣習・宗教・イデオロギーに影響されつつ、自己の感性も意見も身につけていきます。

 そこで歴史(一般に科学といっても良いでしょう)を学び、<知識>を身につけることが必要になります。

 藤原や小山は、この本の中で、ウクライナ問題において、そのことの重要性を知らせてくれます。  それは、新しい知識を得る過程であるとともに、ある意味ではそれ以上に、それまで自分がいかに偏ったり誤ったりした見方や考え方をしていたのかに気づき・点検し・削ぎ落とし・鍛え直す過程です。自己の<感性>を放棄するのではなく、鍛え直すわけです。  このシリーズで、農業技術や食の歴史について考えてきたことも、有機農業をめぐって<排外主義への戒め>を確認したことも、そうした努力の一環と言えるでしょう。


 「科学を媒介とした感性の鍛え直し」という点では、いわゆる科学主義やヨーロッパ中心主義の危険性を自覚しつつ、人間存在の普遍性、世界の人々の共感可能性を(その実現の厳しさを覚悟しながら)信じる以外に人類の未来に対する希望はないと思います。


 「信じる」ということに関連して言えば、現在の言論状況について感じる「感性の欠落」あるいは「感性の歪み」という問題点のメダルの裏側は、自分の政治的「信条」、党派の「路線」から現実を裁断する傾向です。

 いわゆる左派の中には、いまも、世界の悪業は全てアメリカ(帝国主義)に起因すると考える人、日本のアジア侵略の歴史と現実を踏まえるとき、中国や朝鮮・韓国の問題点を指摘することすらためらい・許されないと考える人がいます。

 しかし時代は変わり、世界は揺れ動いています。

 正直言って、現代世界への認識とその変革の方向をめぐって、いまこのとき、「この捉え方が唯一正しい」と主張する人、「唯一正しい路線を持つわが派の方針に従え」と主張する党派は根本的に信用できません。

 主張や行動には一定の「ものの見方」が不可欠であり、その意味で自説を主張することじたいが間違っている訳ではありません。しかし、政治的認識・行動は「科学」ではありません。実践は絶えざる試行であり、主張や方針は実践の検証によって鍛え直す以外にないのです。


 なにか中途半端な感想の披露になりましたが、藤原・小山本を読んで、言いたくなったことを書いてみました。




⑥「発酵」の思想と技術についてこれから学びます


 シリーズの最終回です。

 藤原には、これまで取り上げていない本格的な主著と言えるものが、2冊あります。  農業思想史に関する理論書というべき『農の原理の史的研究─『農学栄えて農業亡ぶ』再考─』(創元社 2021年)と<食>の歴史を考える中で到達した思想書というべき『分解の哲学─腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社 2019年)です。

 このうち前者は、内容がだいたい想像でき、農業論の専門家になるつもりもないので、今のところ読む予定はありません。後者は、今回購入して、これから本格的に読み込もうと思っているところです。最後に、この本を取り上げます。


 「発酵」という現象の面白さは、従来から小泉武夫の著書や文章を読んだり、ワイン会社に就職して、自分は醸造にタッチしないけれど、日常的に見聞きすることによって、これまでも感じてきたところです。


 僕は49歳でワイン用ブドウ栽培にゼロから取り組んだので、限られた時間の中で実績をあげるためには栽培に集中するしかないと決心しました。会社(三澤社長)も、ちょうど自社農場を建設・拡大する時期で業務が膨大にあったため、それを認めてくれたわけです。しかし、本質的に言えば、ワイン用ブドウの栽培はあくまでワインづくりという目的に規定されているわけですから、醸造についてよく知らないことは、栽培家としても致命的欠陥になりうる問題なのです。『ブドウと生きる─グレイス栽培クラブの天・地・人』(人間と歴史社 2015年)を編纂していただき、よき理解者であった山本博先生からも、そのことは折に触れ忠告されたものです。


 この問題は、中央葡萄酒退職後、たんにブドウ・ワインづくりに取り組もうとする旧会員たちを応援するだけでなく、自分が会社の代表になって、(後継者の育成・バトンタッチを含めて)ワインづくり全体に責任を取らねばならなくなったことにより喫緊の課題となりました。本格的・専門家的な教育・実習を受ける時間的余裕はないので、まずは差し当たり一般教養的な観点で入手していた書物、例えばデイビッド・ハート著『イギリス王立化学会の化学者が教えるワイン学入門』(エクスナレッジ刊 2019年)などを真剣に学び直し始めたところです。今年の初収穫─初仕込みからは、先人・協力者の教えを請いながら、掛け値なしの真剣勝負をすることになるでしょう。


 そういう段階で、藤原の著書を集中的に読み始めた今回、本書『分解の哲学』の存在を知ったのです。  <技術>に<思想>がついてこないともう一つ乗りきれないタイプの僕としては、発酵の思想と技術を並行して読み込み、学ぶことにしました。まだ読み始めた段階なので、このシリーズでは中途半端にまとめたり、わかったようなことを言うのはやめます。  もう少し読み進めてから、藤原「哲学」のまとめや感想を述べ、とくに実践的な問題意識として重要だと思うことについて報告できれば良いと考えています。


 シリーズの冒頭で述べたように、朝日新聞書評欄での2年間にわたる書評の数々から、藤原の知識人としての幅広い関心と柔らかな感性、鋭い分析力と優れた文章術に感銘した僕は、本格的に著書を読もうと決意し、このシリーズの文章も書きました。発表してからの多くの「友達」の反応で、かねてから彼が注目され、期待され、愛されてきた研究者・思想家・実践家であることを思い知らされました。  そのような方にとっては、「何を今さら」の文章であったかもしれません。

 しかし、一人でも新たな方が彼の著書を読むきっかけになれば本望です。  そして藤原辰史氏のいっそうの精進と活躍を期待します。




【完】

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