10・8から50年を生きて( 2017.1.25)
- redvine
- 2017年1月25日
- 読了時間: 11分
10・8山﨑博昭プロジェクトについて
プロジェクトの開始にあたって、「賛同人の一口メッセージ」に次のように書いた。
山崎博昭(そして辻敏明、正田三郎)の死への責任感を最大の根拠に1993年まで中核派で活動した。そうした倫理を捨て、現実に意味のなくなった運動・組織と決別して20年余。山崎を憶うことは、僕にとってこの50年の総括と同義であり、「10・8顕彰」に両手をあげて賛同するのではない。ただ、これが契機でなければ口を開くことのない人、動くことのない人が出会い、意見を交わすことは同時代人として意義深いだろう。それが社会運動の再生への少しでもの支援に繋がればと願う。
賛同の輪が広がり、毎回の集会が多彩に行われ、いくつもの企画が成功したのは、発起人や事務局の方々の努力のおかげだ。深く感謝したい。
集会の場で何十年ぶりかに顔を合わせたり、ウェブサイトの賛同人欄で見知った名前が増えるたびに、「ああこの人も生き延びて元気でやっているのか」と感慨を覚えた。この記念誌でも、多くの方の「10・8羽田」「山﨑博昭」「この50年」についての肉声を聞きたいと思う。
山﨑博昭と僕
山﨑博昭は大手前高校―京都大学文学部をとおして2年後輩にあたる。と言っても高校時代の彼を直接には知らない。
僕が高校3年の時に新入生として岩脇正人が社会科学研究部に入部し、すぐに年の差を越えて心を許しあう仲間の一人となった。僕が1965年に京大に進み、マルクス主義学生同盟・中核派に加盟して活動するようになった直後、高校生対策部のメンバーに岩脇を紹介した。反戦高協という高校生組織を結成するためである。それから岩脇や佐々木幹郎、岡龍二などが中心になって、大手前高校と大阪府委員会を高校生運動の全国一の大拠点につくりあげた。山﨑はこの動きの中にいたことになる。
彼は1967年4月に京大に入学するが、同時に合格した88人の大手前卒業生のうち10人ぐらいいたすぐに中核派に加盟して活動しはじめるメンバーの一人だった。山﨑は同級生の間では誰もが認める秀才として知られていたようだが、物静かな文学青年タイプであり、活動家としては目立った存在ではなかった。
大手前グループで一番目立ったのは、一浪合格の大西であり、6月末の教養部自治会の前期役員選挙には留年して二度目の2回生である僕が委員長、大西が副委員長に立候補し、当時執行部であった民青の反対派としては最大の支持を集めた。山﨑はこの大西と同クラスであり、クラス活動家として彼の全学的活動を支える役割を果たした。
10.8羽田闘争と僕
実のところ、僕は10.8羽田闘争に参加していない。前期選挙の後、翌年学部に進学するために教養部の活動の第一線から退いて授業・試験を受け、単位を取るという組織的位置づけになったからである。これは教養部のリーダーの世代交代及び文学部自治会権力獲得への布石という中核派の全学的・全国的な目標からのお墨付きを得ていた。しかし僕の内面では、中核派中央の路線への反発によって組織から自分を相対化したいという欲求にもとづく選択であった。
もともと僕は高校時代に60年安保闘争後の思想・政治状況の中で、吉本隆明の影響を受け、安保ブントのシンパとしてマルクス主義や共産主義に接近し、関西ブント系の運動とつきあっていた。したがって、京大に入学したらブント=社学同に入るつもりだったのだが、合格発表の日にキャンパスを回ってサークルボックスをのぞいたことがきっかけで中核派の存在を知り、それを選択した。
それはサークルの学習会のテキストに梅本克己の『現代思想入門』や『過渡期の意識』を選択するような、中核派京大支部の思想的な柔軟性に共感を覚えたことと、直接オルグされた竹中明夫(小川登)や今泉正臣ら日本共産党→安保ブント→革共同という経歴の幹部が語る「革共同=中核派こそ安保ブントを継承し発展させるもの」という位置づけに納得したからであった。と同時に、64~65年頃の中核派が安保闘争後の運動の四分五裂を乗り越える大衆運動と統一戦線の最も誠実な担い手として登場していたことを全面的に支持したのである。
ところが、66年12月の三派全学連再建直後から中核派は自分が主流派になることを最優先し、その結果として統一戦線が潰れてもしかたがないという路線に転換し始める。そして大衆運動の組織力=拠点の動員力において劣勢な東京での党派闘争に勝つために、関西や各地方からの動員を物質力(頭数とゲバルト)として利用することを恒常化していった。そこには地方の大学自治会での大衆運動(三派内での党派闘争は殆どのところで無縁である)や個々の活動家の内面などまったく顧みられない。その結果、運動の激化・発展と並行して、活動家の疲弊や空疎化が絶えず進行していかざるをえない。僕は66~67年時点で中核派の若手活動家の中で中心的位置を占めるようになっていたが、中央=東京のそのような路線・体質に感性的に反発し、いったん距離を置こうと考えたのだ。
かくして、10.8羽田で山﨑が死んだというニュースを僕は、大阪の自宅に帰った翌朝、留守部隊としての宣伝活動を準備するために大学に戻る京阪電車の中のテレビで知ることとなった。
僕にとっての10.8ショック
山﨑は大きく言えば僕の影響を受けて京大―中核派の道を選んだ人間であり、その彼が僕自身はいわばサボった闘いの先頭に立って死んだという衝撃は大きかった。
その瞬間から「学部進学」「組織を相対視する」といった考えはすっ飛んでしまい、虐殺弾劾・山崎君追悼の京大での運動から第二の羽田としての11.12佐藤訪米阻止闘争(小川神介監督『現認報告書―羽田闘争の記録』のラストシーンで流れる現場アジテーションは僕の声である)、68年1月エンプラ寄港阻止佐世保闘争(デモ指揮者として他の一名と共に米軍基地に突入した)、さらに王子野戦病院反対闘争・三里塚闘争へといわゆる「激動の七カ月」の闘いの先頭に立ち続けることになる。
もちろん山﨑の死に対する個人的責任感だけがバネだったわけではない。
思想的にいえば、10.8の直後に革共同の本多延嘉書記長が提起した「革命の現実性」という認識を承認し、その立場を体現しようとしたのである。これは革命運動を共産主義思想の普及に留めたり、革命の実現を組織建設と大衆運動や議会選挙の彼方にとらえる立場を脱却し、「戦後世界体制の根底的動揺と日本帝国主義の体制的危機」という時代認識のもと、自分の目の黒いうちに帝国主義打倒=プロレタリア革命を血みどろの闘いをとおして勝ち取るということである。
ここで重要なのは、たんに客観的な危機を認識することではなく、情勢の危機的性格を主体化した革命的前衛の目的意識的・組織的実践を媒介にしてこそ革命的情勢を切り開くことが可能となり、労働者階級の事業としての革命が実現できるということであった。
正直に言えば、当時、資本主義が体制的危機にあるという認識をもったわけではなかった。しかし、もともと僕(ら)は先行する世代と異なり、「貧困や恐慌の必然性」から共産主義=革命を志向したのではない。「豊かな(豊かになりだした)社会」のただなかの「人間疎外・物象化」とか「システムの奴隷化」と称される現実からの解放欲求の切実性から共産主義を希求したのだった。したがって資本主義の経済的危機のリアルさは必ずしも不可欠ではなかった。
本当に切実だったのは、ベトナム人民の闘いがアメリカ帝国主義の世界支配を揺るがす中で、日米安保体制のもと、日本がベトナム侵略戦争への加担を決定的に深めようとしていることへの危機感であった。日本帝国主義のアジア侵略を再び許すか否か、日本人民の命がけの闘いが今問われていると心底感じられた。それゆえに、70年安保闘争を条約改定をめぐる政策闘争として闘うのではなく、侵略(加担)阻止の実力闘争の激発を水路に、沖縄の永久核基地化反対・本土復帰・基地撤去、安保粉砕・日帝打倒という革命的スローガンを掲げた体制の存続そのものを問う大衆運動として闘う方針にリアリティを感じたのである。
そして、激化する国家権力の弾圧と真正面から対峙しながら、自分が命がけの決意をして闘いぬくことによって人を動かし情勢を切り拓きうるという「激動の七カ月」の体験が、「革命の現実性を媒介するものとしての革命的前衛の試練」という本多書記長の提起を納得させた。
だからこそ、この過程でそれまで最も信頼し、人間的にも親しかった革共同関西地方委員会の幹部たちが中央の戦術極左主義・街頭主義と官僚主義を批判して離党した時にも、動揺し追随することはなかった。先述したように僕自身も中央の路線や体質には批判があったし、彼らの批判に聞くべきところもあった。しかし、なにより学者や医者という安定した職業・立場を確保しながら革命運動の指導部でもあり続けようとする彼らには「革命的前衛の試練に応えきる覚悟」を感じられなかったからである。
中核派としての27年
「10.8山﨑ショック」で退路を断って革命的前衛として生死することを決意した僕は、その後、1993年末に離脱するまで革共同の専従活動家として生きた。
この間、革共同は70年闘争を「破壊活動防止法」を適用されながら決戦として闘い、その後の国家権力の弾圧と革マル派からの攻撃に対抗しつつ三里塚闘争や狭山闘争を闘いぬくところから、さらに一歩進めて対革マル戦争を革命的内戦として闘うことをテコに内乱・内戦―蜂起を切り拓くという軍事路線に突き進んでいく。 僕はこの過程を学生戦線の指導部→反軍戦線担当→対革マル戦を担う非合法・非公然部門の構成員として闘い、その結果、70年代後半から80年代初頭にかけて獄中生活を送ることになる。 元来大衆運動主義で統一戦線志向の僕にとって、党派至上主義―党派間戦争路線は心から納得できるものではなかった。
しかし、革マル派との対立が決定的にエスカレーションする契機となった1971年12月4日の関西大学における革マルの武装襲撃による辻敏明と正田三郎の死に対する責任感が僕をこの戦争の先頭に立つことを選ばせた。10.8羽田とは違い、僕自身が当日その現場におり、軍事的敗北に対する政治的責任を負っていたからである。
対革マル戦の激化―勝利の彼方に階級闘争の明るい展望を見ていたわけではない。ただ、革マルに敗北することが全階級闘争の敗北をもたらすがゆえ絶対に負けるわけにはいかないのと同様、この軍事的せめぎあいから目をそらして逃げることは個人として人間失格以外のなにものでもないと思った。
だが、5年間の獄中生活における読書と思索は、僕の意識を根底から変えた。現代世界論、革命論、人間論のすべてにわたって革共同と自分の思想性、いわば60年代的思想水準が時代遅れとなり、革共同の組織と実践が階級・大衆から乖離し化石化・桎梏化していることを痛感せざるを得なかった。もはや、革命の思想とその実践はいわば一から作り直す以外にないと感じられた。
それからの10年は、「山﨑や辻・正田、さらにいえば革マルを含めた死者たちへの責任として中核派として生死するしかない」という倫理観に縛られながら、現実にはもはや綱領的異論派となった人間が組織的になにをすべきか、なにができるかを問いながら、関西と東京で様々な活動を展開したことになる。
そして結局、退路を断つという倫理は、誠実であるかにみえて、現実には転進しえない自分を合理化する自己保身に結果せざるをえないし、政治局を先頭とする「職業革命家」のそのような自己保身の結果として、革共同は戦闘的労働者や学生の献身的活動にもかかわらず多くの可能性を失ったとの認識に達して離脱した。
職業人としての24年、そして今とこれから
社会人として再出発するにあたって心したのは、思想・イデオロギーを旗印に言葉(演説や文章)で人を動かし組織してきた人間として、それまでの思想が破産したあと別の思想・言葉を操ることで生き延びることだけは決してしまい、ということだった。だから直接人と向き合うのではなく、自然を相手にモノをつくって生きたいと考え、偶然の縁から山梨のワイン会社で原料のブドウを栽培する仕事につくことになった。
1996年、49歳での挑戦から20年余。人と時代の縁に恵まれて、日本ワインの飛躍的な品質向上、世界市場への進出という歴史の大きな一頁に微力ながら参加することができた。その功績は社主に帰せられるものであるが、充実した時間を送れた幸運に感謝したい。
そして2007年からはワイン愛好家にブドウ栽培を教え、ともに働く組織を立ち上げ、その活動を今後も続くライフワークとするようになった。ブドウ栽培という場を通じて、人と社会に直接的に関わりなおすようになったと言えるだろう。識者から「都会と自然をブドウが繋ぐ」「ワイナリーが創りだした新しい価値」と評される活動は多くの人々の生きがいをもつくりだしている。
3.11大地震と福島原発事故のあと、戦争法案反対の闘いとシールズ現象(およびシルバー左翼現象)を経て、古希の翌年に10.8からの50年を迎え、思うことは多い。
資本主義というよりは人類史全体が巨大な転換の時代を迎えていることは誰の目にも明らかだが、明確な変革のプログラムと主体は見えない。だが、「よりましな社会」をつくるための努力を怠ることはできないし、その中で「可能なる革命」への希求をなくすべきでないだろう。
いずれにせよ、社会運動再生の主人公は次の世代に委ねる以外にない。しかし、高齢化の進展と社会構成の変化・社会的課題の累積を考えると、あるいは残り少ない人生かもしれないが、これからの僕らの生き方が「余生」ではなく「人生の本番」として問われているのかもしれない。
一瞬・一時の闘いに生命をかけることより、大きな組織(国家であれ会社であれ党派であれ)の同調圧力に屈せず信念を貫き通すことのほうが困難であり重要であることを学んできた「生き延びた10.8世代」の一人として、今とこれからを真剣に生きていきたい。
(2017年1月執筆。 「10・8山﨑博昭プロジェクト」の『かつて10・8羽田闘争があったー山崎博昭追悼50周年記念・寄稿編』(2017年10月8日発刊)への寄稿文として書いた。)
Comments